結局「やりたいこと」なんてないなと思う
久しぶりに浮上
最近研究やらその他が立てこんでいてブログを書けなかった彼方だ。
先日内定式が行われていたらしい。
同期達が内定式を終え、内定式でおこったことを話し合う。後輩達はそれを聞き、自分はどういうところに就職しようか話している。次のステージへの第一歩を決め、研究をこれからどんどんと進めていくなか、研究にも進路にもつまる私は考えを巡らせる。
結局私にはやりたいことなんてないのではないかと思ったりする。
「これを絶対に明らかにしたいんだ!」という熱い研究意識も、「ここで働きたい!ここれで自分は食べていくんだ!」という会社や職業観もない。
明確にやりたいことがある人が羨ましい。
どうやってやりたいことを見つけているのだろう。
いつからか「これをやりたい」と思うことが気恥ずかしくなってしまったような気がする。「やりたい」と思っても、自分よりずっとそのことに対してひたむきで、努力している人を見ると、自分はそんなでもないなと思ってしまう。
他人との比較の中でやりたいことを見つけてしまっているのだろうか。
掲げている夢や目標が周りに比べてぶっ飛びすぎていて、いつからか自分から話すことを辞めた。でもそれは笑われるのを怖がっているだけの、自分の心の弱さなのだろう。
それでもふと、万人受けするような普通の夢を持ちたかったと思ってしまう。
上の記事みたいに、人と違うことをしようとすると、説明責任が莫大に増えるけど、その説明も疲れてしまった。
自分のやりたいことは実現しない、検討違いなことなのかもしれない、じゃあちょっとばかり冷静になってみると本当は結局やりたいことなんてものではないのかもしれないと思う。
代わりが効かない唯一無二の存在でありたいと思いすぎてしまったあげくの、理解されない独自性を求めすぎてしまっているだけなのかもしれない。
いや、考えすぎか。
寝食を忘れるほどやっていて楽しいことでないと「やりたいこと」ではないと思い込んで、「やりたいこと」へのハードルを自分で高くしすぎているだけなのかもしれない。
中学生の時「君は電波だね」と言われたことを思い出す。当時自分では気付かなかったけど、私の行動や目標はそんなにも彼らと違ったのか?
かつてキリスト教徒だったことを思い出す。神はいないんだなと悟ってから、めっきり教会に行くこともなくなった。宗教を妄信することはもうないなと。
しかし宗教ではなくとも、宗教的なモノはそこら中にある。
特に建築・デザインの世界だと、巨匠と呼ばれる人々を崇拝している人々に遭遇することも多い。そういった巨匠が建築の力・デザインの力を語っても、周りのようにその力を崇拝することができない。私は何も信じられない、偏屈な人間なのだろうか?
ここ最近ずっと夜が長い。この暗闇とともにひっそりと消えてしまいたい。
この心が一時のものであってほしいと切に願う。