我々はどれほどこの「世界」を知っているのだろう?
大学ではファインアートではなくデザインを学んでいる。
デザイン・設計を学びはじめまだほんの2.3年しか経っていないがどうすれば上手く進むのか、どういったものがいいのかほんのちょっと少しずつでもわかってきた。
分析や調査を行い、最初の糸口にさえたどり着けばどおのずとカタチや空間が見えてくる。それは数学で解を見つけ出すような感覚に近い、もともとある答えを探り当てるようなものだ。問題は相手が提示してくれている。向き合うべきは相手だ。
ファインアートは難しい、自分と向き合う、自分を知り自分の中からまだない答えをうみださなければならない。自分と本気で向き合い、絵でも文章でも自分を本気で表現しようとすると自分のつまらなさ、底の浅さにうんざりする。自分は世界を何も知らないのだと痛感する。ここでいう「世界」とは大学生が「社会経験」などの意味で使う「世界」ではなくもっと広い意味での「世界」だ。
木々はどういった枝葉をしているのか?空間とはなんなのか?光があるとなぜ影ができるのか?言葉とはなにか?etc...
この世の中を構成しているものこと全てをひっくるめた「世界」にはまだまだ知らないことが多すぎる。そんな世界に生きていて自分はどれほどのことを知っているのだろうか?どれほどの疑問に気付いているのだろうか?
聞きかじった話で知った気になっているだけで自分の中に残っていない、だから自分を表現するときにいつも詰まってしまうのだ。
この世界に自分はどれだけ本当に向き合ってきたのだろう?
課題やらなんやらとにかく忙しく充分に思考する時間もなく小手先だけの表現でその場をしのいできた生き方をやめ、充分に世界と向き合い、充分に自分を表現したい。
グリザイユ画法で絵を描いてみた
「狩人」
グリザイユ画法というモノクロの絵を完成させたあと、着彩をしていくという画法を用いてイラストを描いたのは初めてだがとてもやりやすい。
イラストを描き始めるようになったのはほんの一年くらい前からで、それまでは絵を描くといえばデッサンだった自分にとって彫刻のように大まかなカタチから細部へと、陰影を追って描いていくという作業はそこそこ慣れている。パーツ毎にレイヤー分けをして塗り絵のように着彩することは憧れるがまだまだ自分は使いこなせないと感じる。
モノクロの世界に原色が一色だけはいるという構成が最近お気に入り
かわいい大西麻貴さんと建築
現代建築家コンセプトシリーズ⑰大西麻貴+百田有希/o+h』を購入。o+hは「二重螺旋の家」を偶然ネットで見つけてからその発想と絵本の世界のようなスケッチに惹かれ、興味をもつようになった。内容は設計のことだけじゃなくて施主とのやりとりの様子や構造、材料まで様々で読み応えがあった。でももうちょっと住み手の生活を知れるような文章や写真があればよかったかも。
o+hに興味をもつようになった理由は実はもう一つあって、それは大西麻貴さんの容姿が非常にかわいくて自分の好みだということ。それでいて京都大学というのだから才色兼備な方なんだなぁと。在学中はきっと学科のマドンナ的存在だったんじゃないかと邪推する笑。
「大西麻貴」の予測変換でも「大西麻貴 かわいい」って出てくる。
みんな同じことを考えてるいるんだなと思って最初のほうにでてきたサイトを開いてみると、「かわいい」は「かわいい」でも違う「かわいい建築」についてだった。
かわいい建築ってのは建築学生なら聞けば「ああいうタイプのやつか」ってのが分かると思うんだけど。SANAAとか妹島さんとか石上純也さん中山英之さん大西麻貴さんみたいな、ぺらぺら人間+白+植物+ぽわわ~、な感じのドローイングを特徴とする一派だよね。もちろん厳密にはそれぞれ違うけど。
O+hやSANAAの建築のあの雰囲気を「かわいい」という言葉を使って表現するのは実に言いえて妙だな笑。
(↑かわいい模型とぽわわ~んとしたスケッチ)
またそのブログではこうも言っていた。
あとはスケールの問題がある。かわいい建築はかわいいドローイングをそのまま実空間に立ち上げたようなものを目指しているけど、実際にそれが馬鹿でかい建築として現れたらかわいいのかどうなのかと。本城直季風の写真で無理やりかわいく撮っちゃったりしてね。
二重螺旋の家も初めて見たのは模型で、それに惹かれたのだったということを思い出す。実際に建った写真もそのあと見たけど別に実物を目の前にしたことはないので、確かにそのスケールが前に立ちはだかったら果たしてそれは模型がもっているかわいらしさは残っているのかというと疑問ではある。記事を読んでいて確かにかわいい建築のある種の気持ち悪さというものがわかったような気がする。
でもなんだろう、それってちょっと面白いんじゃないかなとも思った。模型が大きくなったというよりも自分が小さくなって模型の中に入り込んでしまうような、そんな感じの非日常(?)的な空間体験をすることができるんじゃないのかな。まぁ二重螺旋の家は戸建住宅なので非日常感なんてものは普通いらないのだけど、これらの建築のもつ非日常的な面白さや気持ち悪さが日常との間のズレを生じさせるなんてことは恐らくなく、むしろいい具合にマッチするんじゃないかと自分は思うのだ。
切羽詰まった感じや気持ち悪さはきっと、同時に面白さやワクワクを兼ね備えているはず.......
建築においてまだまだ未熟だけど未熟な頭を使って考えてみた。1年後には意見変わってるかもしれないけど、こういう時過去の考えを見直すこと備忘録は役に立つんだろうな.....
二重螺旋の家のスケッチ模写。ぺらぺらぽわ~んではなく重量ある感じで描いてみた。
「少女T」の「T」は「杖(つえ)」の「T」です。
この絵を描いてるときに便宜上つけた名前が「セーラー服と杖」という見たまんまの名前だったのだけどpixivにのせる際に、一応少しちゃんと考えた名前にしようと30秒くらい考えた結果「少女T」となった。
モノクロの世界の中に原色ビビットなカラーが一色入る構成が最近好き。
photoshopでお絵描きするの楽しい。まだまだ粗削りだけど。
深夜の大カースケッチ会
ごくたまに、唐突に車のスケッチをしたくなるときがある。
今日はその日で時間を忘れてどんどん車を描いてしまった。というよりも1枚描いて全然うまく描けないと悔しくなってまた1枚また1枚と枚数がどんどん増えていく。それでも曲線まみれのその造形はいくら描いても納得のいくものができず、自分のスケッチ力のなさに絶望しつつ、カーデザイナーの人達はすごいなぁと思うばかり。
もともと車なんて全然興味なかったし車好きの友人の話を聞いてもふーんよくわからなぁって思うだけだった。カーデザイナーっていう職種は知っていたけどぶっちゃけ街中の車なんてほとんど全部同じように見えていたので何が面白いんだろうという気持ちが心の中にずっとあった。でも色んな記事を読んだり話聞いたりしていてだんだん理解できてきた気がする。(以下の記事を参考にしました。)
車とは・・・・
科学技術の結晶である。
かっこよさを追求した走る彫刻である。
その人をあらわすファッションである。
自分だけの動く部屋である。
車には様々な側面があってそのどれか一つでも欠けたら、全てダメになってしまう。
その全てを総合しつくられた作品が街中を颯爽とはしりまわる、それこそが車が多くの人を引き付ける理由なのだろうなぁと。
特にカーデザインはカタチだけでなくサービスなどの付加価値をデザインする必要があるこの時代でも、ひたすらスタイリングしてかっこよさを追求するいわゆる「デザイン」をしていて、純粋なカタチを追い求める楽しさがあるんだろう。
実際ちょろっとスケッチしていただけだけどフェラーリの造形とか描いてて、とても楽しかった。
カーデザイナーになろうという気は全くないけどひたすらにカタチを追い求める、そういう機会をこれからつくっていこうかなと思ったのであった。
呑み会の帰りにおもうこと
3月から関わっていた企画イベントが無事終わった、ので打ち上げに参加してきた。
こういうイベントごとに参加することはあれど、呑みの席に居合わせたのはとても久しぶりだ。
しかしやはり自分はこういった場は苦手だと再確認する。そもそも集団の中に混じると自分が一体どのような行動をとればいいのか全くわからない。まして呑みの席では役割など決まってないのだから余計にだ。それに席や会話はとても流動的でもう少し話したいと思った時には、すぐにもう別の人の別の話題へと移っていってしまう。どうも会話のテンポが遅い自分にとっては、いつもモヤモヤ消化しきれない思いを抱きながら時を過ごしている。
2人3人で静かにじっくり話したい。そういえば高校卒業間際の時期には、知り合いの後輩を1人ずつご飯に誘って2人きりでじっくり話し合ったっけ。少人数での会話はその人の人となりをきちんとしることができるから楽しい。仲の良い人はもちろんのこと、普段あまり話さないような人でも誘えるだけの勇気も持ち合わせていた。
高校の時は気軽にご飯誘って二人きりで出掛けることができたのに、大学に入ってから妙な緊張感でそれができない。なぜだろうか。まるで高校生から中学生に逆もどりしてしまったような感覚である。
結局誰も誘えない自分は呑み会という席で誰かと話さざるを得ないのだ。なんだかんだでこういった席では普段全く話さない人とも少しは話すことができて、人となりを2人きりで話すよりも深くはないけれど知ることができる。
大勢での席はやっぱり苦手だがだんだんと自分なりの楽しみ方を見つけだしてきてるのだろう。
きっと自分はどんなところに行ってどんなことをしてもそれなりに楽しく、それなりいに切なく悲しくなることになるのだろうと思ったが、それはそれで決して悪いことではないのかもしれない。
photoshopとペンタブと
デジタル絵がめちゃくちゃ上手い後輩の姿を見て、デジタル絵をもっと頑張ろうと思った。
ペンタブ買ってからもう半年は経つ。
photoshopとペンタブを駆使してのデジタルイラストもぼちぼち慣れてきたかな。
風景を描く
春休み終わりに金沢旅行に行っていた。
夜行バスに乗ってきたのでコンビニくらいしかやっていない早朝に到着。馬鹿なことに旅立つ前、最近修理したスマホもカメラも充電するのを忘れてしまったので、写真を撮ることも何か調べることもおろか時間を確認するすべもない。おなかもちょっとすいていたが、旅先について早々コンビニ弁当といのはプライドが許さなかったので我慢。せっかく画材を持ってきたので、風景を描くことにした。
静物やイラストとは違う、リアルタイムで移ろい変わってゆく風景を描くのはなかなか大変で今まで絵をかく時には使ってこなかった部分の脳を働かせたような感じがした。
でも一つの景色に時間を忘れるほど向き合い、風や温度を感じながら真っ白な画用紙に描いていくという経験はとても貴重だったと思う。思えば今の生活は常に時間に追われ、また情報も膨大にあるので一つのモノにこれだけ対峙するということ自体久しぶりだ。
美しいもの心動かされるものに飽きるまで対峙し心に描き留めておく、そんな風な時間の使い方ができるような人生をこれからは心掛けていこうかな。
ブログ界はまさにカオス
はてなブログを利用しているわりに、今まではてなブログトップにでてくる旬のエントリーやらなんやらに目を通したことがなかった。もともと熱心に誰かのブログを見るような人間ではなかったし、ブログを始めてからも自分のブログなんかほとんど見返さない。ではなんのためにブログをやっているのかと問われれば返答に困るが、多分自分の思考を文字に書きおこし、その過程で思考を整理したかったからだろう。そういう意味でこのブログはネットにいる不特定多数の読者のことなんか微塵も考えていない自分勝手なブログということになる。
こんなブログがある一方で、不特定多数の読者をきちんと認識し、彼らに面白いコンテンツを与えんとするブログも多数あるようでそんな中で一日何万ビューも稼ぐ人々のことをプロブロガーと呼ぶらしい、昨日唐突にはてなブログ内を色々巡ってそんな彼らのブログに出会った、どこのブログとは言わないけれど。
注目されているものの特権として、そんな彼らのブログにはその記事の主張に対する反対意見や持ち上げる意見がとにかく入り乱れている。それだけならまだいいのだが揚げ足とりがあったり、途中から思いもよらない方向に火の粉が飛び散ったりしてどんどんとへんな方向へと発展していっている。そんな状態はまさにカオスであろう。
ブログなんて誰がどう運営しようがどういう主張しようが自由なのだから、放っておけばいいだろうと個人的には思うのだが、そうはいっても意味不明な主張をしている記事には噛みつきたくなる、一筋縄ではいかない矛盾を抱えているのが人間なのだから。そうして自らカオスの中に入っていってしまう、それがブログの醍醐味なのかもしれないけれども。
プロブロガーの中には広告で収入を得ている人達もいるらしい。稼ぎを増やすためどうやって注目を集めるか必死に彼らは考える、面白い記事を書いたり、炎上商法のように挑発的な記事を書いたり。またブロガー本人にブランドがつけばありきたりな記事でもビューはかせげる。
小学生の時だったか「働く」という言葉は「はた(傍)をらく(楽)にすること」という意味だと習った覚えがある。傍を楽にしたその対価としてお金をもらうのだ。しかしブログの台頭でその意味は大きく変わってしまったように思える。炎上だろうがなんだろうが注目されればされるほどお金がもらえるような仕組みが生み出されている。
そんな中でブログで収入を得るとなると主張の自由などと言っている場合ではないような気がするので、嫉妬や高慢その他さまざまな感情が芽生え、ブログ界がより一層カオスになる。そして今の現状に至るというのは当然のことのように思える。
傍を楽にせず、たとえ傍に不快感を与えても注目されればいいといった稼ぎ方が存在しているのはいささか確かに釈然としないが、そういうものがあってしまう以上やっぱりブログとは自由なものなのだから放っておけばいいというしかないのかもしれない。
逆を考えれば、カオスでないブログなどそれはブログではないのだから。