水道が使えなくなったの巻(3日だけ)
私は今一人暮らしをしている。
長期休みで久しぶりに実家に帰っていて、そしてまた1人暮らしのアパートに帰ってきた。
お風呂でも入ろうかな~
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水がなぜか出ない......!!!!
いや正確には出るのだけどすごく水圧が低くてちょろちょろとしてしかでない....。
不具合かなと思って2日くらい何もしなかったけどそれでもなおらないので、水道局に電話。水道局のお兄さん2人組があれこれ見てくれて原因が判明、どうやら元栓が閉まってたらしい。最近隣の人が引っ越したのだけど大家さん辺りが間違えたっぽい、そんなこともあるのね.....
水がほとんど使えないといっても困るのはお風呂くらい......近くに銭湯あるし余裕でしょ...と最初はたかをくくっていたのだけど生活してみるとポットでココアはつくれないわ、歯磨きは不便だわ、食器は洗いにくいわと予想しないところで弊害が。
あげく銭湯休みだったのでしょうがないからちょろちょろとしかでない水をため、やかんで沸かして、それを水と混ぜてちょうどいい温度にして、それをお湯として体と頭を洗うのにつかうという....すぐなくなっちゃうので体を洗うのにも精一杯。
ガス壊れただけならまだ水風呂できるのだけどね、水がないとどうしようもない。予定もなく家に引きこもってられる日でよかった.....
なくなってはじめて身近なもののありがたさがわかってしまう、日常は決して当然のものではないのだなぁとしみじみしてしまったここ最近なのであった。
自分の手の届く範囲で
春休みという時間は課題もなく、自分の制作が捗る。各地で開かれてる建築卒制を見に行き、自分の設計に活かすべく建築を考えるもどうも思いつかず、図面は引けない。でも手は動きたくてうずうずしてるので時計やらなんやらをつくる日々。
ここ最近、まれにだけど自分は建築よりプロダクトの方が向いているんじゃないかなぁと思ったり。
別に大学でプロダクトを学んでるわけじゃないので、そういった方面に進んだ同級生とかに話聞いたりして感じただけだけど。
それにプロダクトといっても市場を調査して売れる商品をつくるというのはなんか嫌い。自分のつくったものが不特定多数の見ず知らずの人達の欲望の的になって使われていると思うとなぜか少し気持ち悪い。
なんでなのかを突き詰めて考えていくと、自分はきっと手の届く範囲の生活をつくりだしたいんだろうなという結論に達した(?)。
ターゲットユーザーを設定し彼らに対しデザインをする、社会における問題を見つけ出しデザインで解決していく、デザインで世界を変える!とデザイナー・建築家は言う(何もデザインに限ったことではないね・・・)。
重要だけど、もっと優先的に身近な自分自身の幸せを願ってもいいんじゃないかと思ったりする。自分1人の手の届く範囲なんてそう広くない。世界よりもまず自分と、そして手の届く周りの人々をデザインで解決していく。
それにその方が自分のものづくりがより身近に、現実味をおびて見えるから、楽しいと思うのだ。自分とその周りは自分でつくるとうのが性に合ってるのかもしれない。
建築はどうも社会的な責任というものが大きくなりすぎてて、その大きさこそが建築の醍醐味なのだろうけどね。
こんな考えで果たして社会でやっていけるのか不安にもなる、ものづくりが趣味の範疇から抜け切れてないからなのかなぁ。
「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」を読んだ
モノをとにかく捨てようという話かと思いきや、どうすれば幸せに生きられるかというお話だった。
モノが全くない部屋でまるで修行僧みたいな生活をしているミニマリスト達による、ミニマリストに至るまでの過程とミニマリストになっていかに幸せになったかを解説している本。
モノを捨てる方法がつらつらと300ページにわたって書かれているのかと思いきや、そうでもなく人生を幸せに生きる方法について書かれていた。
ミニマリストについて自分が今まで勘違いしていたことは、彼らは別にモノを捨てたり、持たないことが好きというわけではなくて、それが彼らにとって幸せになる方法だからモノを捨てているということだった。
“ミニマリズムは目的ではなく手段である。”
と本の中でも書かれている。
なんか色々考えるきっかけになった本なのでこの本を読んでみて、共感できたこと、これは違うと思ったこと、感じたことをつらつらーっとまとめてみる。
モノとは物質的なことなのか
何もない部屋に机とパソコンだけ
本の中で紹介されたミニマリスト達の部屋はこんな感じ。
テレビもなければ本もない。どうしているのかと言うとPCの中に全て入っているらしい。本はスキャンし紙媒体は処分、映画などはネットで購入、現代のIT技術をふんだんに使ってるらしい。
でもこれって普通の人と何が違うんだろうと思ってしまった。彼らがモノを捨てるのはモノがあるとそこに時間や脳のキャパを割かなくてはならず、本当に必要なことが埋もれてしまうということらしいのだけど、物質的なモノがデータ上のモノに置き換わっただけでそれってそんなに変わるのだろうか。
まぁ視界がうるさくなるとか掃除が面倒くさいとか色々あるだろうけどそんなことって微々たるものじゃないかと思ってしまう。
以前スマホを壊して実感したことだけど、必要なモノが埋もれてしまう原因は物質的なモノの量ではなく、単純な情報量なんじゃないかと思う。
たしかに物質的なモノの量が減れば情報量も減るけど、スマホ等の電子媒体を減らさない限り情報量はそう減らないんじゃないかな....
モノの量は減ったけど、スマホやPCに集中的に依存する結果になってしまっているような気がしてならない....
モノに支配されるのは誰のせいか
大量のモノに埋もれていくなかで、人はいつしか道具としてのモノに逆に支配されるようになってしまったと作者は言う。
確かにその通りだとも思ったが、それですぐモノを断捨離してしまうのはどうかと思う。
言い換えれば、作者はモノとの関係性を考えることを最初から放棄してしまっているのではないか。
モノがなければそこに関係性は生まれないので、確かに楽だろう。でもそこに関係性を見出し、どうやって付き合っていくかを考えるのが人とモノなのではないか。
作者は以前モノにあふれた生活をしていたようで、モノと嫌になるくらい付き合って出した結論がモノをもたない生活=ミニマリズムなのでまぁいい。でもそれを考えずただモノを捨てればいいという考えの人がでてきてしまうと問題である。
別にこの本が悪いわけではないけれど、この本を読んだ人が勘違いして、モノとの関係性をちゃんと考えるというステップをすっ飛ばしてミニマリストにならないことを願うばかり.....
シンプルの弊害?
作者はミニマリストになり、好きな子に想いを伝える勇気が出て告白し付き合えたらしい。結局その後振られてしまったらしいが、それについて作者はミニマリズムが徹底していなかったせいだと反省している。
本当にそうなのかな?
この本を読んでいて、どうも作者はミニマリズムということに括り過ぎているような気がする。なんというか考え方までミニマルになっているというか.....
あらゆる出来事には原因があるけどその原因が一つとは限らない。というか一つなんてことは滅多にないと思うのだけど....
何かと最近シンプルな思考やシンプルなプロセスetcシンプルが流行っているような気がするけど、シンプルな思考をしていくプロセスのなか人は大事なものを見捨ていっているような気がする。
シンプルすぎるのも考えものだなぁと。
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書いていくとなんか異論しかでてこなかった........けど共感できた部分もいっぱい。
飽きのくだりとか、幸せとか。
なんにせよもう一度モノとの関係や生活を考えるきっかけをくれる良書だった。
スケッチ&スケッチ....
イラスト・車・プロダクトetc...なんでもスケッチしていく。
真っ白な紙になんでもいいから描いていくのは本当に楽しい。上手く描けたときは純粋に嬉しいし、うまく描けなかったときはどうしてなのか調べて分析してより本物に近づいていく....
描いていけば描いていくほどにモチーフへの理解が深まっていくような気がする。
「絵の上達過程」ググってでてくるサイトみたいに、いつか自分がうなるような絵を描ける未来を夢見て練習してるというのもあるけど、純粋に絵を描くことが楽しい。
とにかく描くのだ。
アニメ「SHIROBAKO」で見る夢。
Blue-Layもってる知り合いがいたり、SNSのアイコンにしている知り合いがいたり、評判良いので名前自体はちょくちょく聞くけど、なんとなく絵柄から敬遠していたりして縁がなかったアニメ「SHIROBAKO」。
正月の昼間からTVで流れてるのを見て、ここで初めてアニメ制作の話だということを知り、まぁ作業の合間にちょうどいいかなと思って、知り合いにBlue-layを借りて、つい最近一気見。
全話見た感想・・・・感動した!!!どうして敬遠していたのか!!!!
アニメ業界の詳しい仕事とかはわからないけど、ひとつのものを大勢の人がそれぞれのスキルをつかってつくりあげていく過程とかは見てて楽しく、あと自分の生活と似てるものがあるような気がした。
こういう仕事ものがはやるって珍しいね、キャラもかわいいし。
夢という言葉は会社に入って仕事をしている時もつきまとっていて、悩み続けるものなのだなぁ。悩み続けることがある意味人生なのかも。
スマホが壊れて世俗から少し離れる
年明け直後くらいにスマホを落として画面を割ってしまった。
画面がちょっと見づらいわ破片が落ちてくるわで早く直さなきゃと思ってはいたもののテスト&課題ラッシュの時期だったのでズルズルと後回しになっていき、気付けば授業も終了。さて画面修理するかと思った矢先に遂に電源がつかなくなってしまった。
ここですぐ修理にいけばいいのだけど、ちょっと用事がたてこみ、そしてもともとのズボラな性格からかまたまた修理は後回しに。その状態から1・2週間くらい経ったが案外スマホなくても生活できてしまっていることに気付く。
PCに繋げばLINEその他SNSは使えるからほとんど全ての人とは連絡をとることができる。出掛ける時はすぐには連絡つかないがまぁいいだろう。というよりも朝晩の2回LINEチェックするくらいが適切なように思えてきた。
またスマホ壊れたことで電話機能が完全に身の回りから消えたわけだが、もともと自分は、プライベートな時間に完全に他人とペースを合わせた会話をしなくてはいけない電話というものが嫌いだ。なのでむしろ解放されたような気分になる。
スマホをもたないことによって解放されるものは多い。特に1人のお出掛け中は自分の場合は上記の電話機能もそうだが、検索アプリでの情報やスマホを通じて繋がっている他人からも解放され、そこには自分ただ1人だけが残されるのである。外出していることで自宅にいるより孤独になるというのはなんだか面白い。
しかしその孤独は寂しさではなくどこにいてもつながることを強制されたこの今の世の中の原理に反抗し、いち早く抜け出せたという嬉しさである。それは優越感にもちかいかもしれない。
なにはともあれほんのすこしだけ世俗から離れているという状況をもうちょっと堪能していたい。
夢をかなえる力とは・・・・
夢を叶える力とはなんなのだろうと最近よく考える。
SNSで昔の友人達が夢に近づかんとしているのを見て、また大学での友人達の着実にステップアップしていくのを見て、与えらた1日24時間という長さは同じなのにどうしてこうも違うのか、彼らは一体どうやって生活していていかにして夢に近づいているのか考える。
きっと彼らはどういうプロセスを踏めば、最短で最高のコンディションで、夢に近づくか知っていてそれを実践しているのだろう。
その方法はどうやって見つけたんだろう。試行錯誤しているうちに自力で見つけ出したのか、夢に近づくプロセスをもった環境に身をおいているのか、はたまた本を読んだりと先人の知恵を借りたのか・・・
「頑張れないわけじゃない。でも、どう頑張ればよいかの方法が思い描けない。」
自分は人から何か言われるのが嫌いである。大学にいわれるがままのカリキュラム、先生に指示されるがままの方法etc...どうしてそうしないといけないのか自分で納得しないと絶対にやる気なんてものはおきない。
いつも自分の道は自分1人で考え切り開かんとして前に進んでいた。
でも、そういう方法も限界がきているのかな・・・・
納得いくまで実践して良いか悪いか確かめるという試行錯誤を繰り返す、必要なことかもしれないけれど、そういった遠回りになる動作がまわりとの遅れを生んでいるのかもしれない。
時間は有限である、人生には終わりがある。夢に近づく方法を自分1人で探し出すことは非常に困難である。
全ての事柄が短期的に結果が見えるわけではないのだから納得できるできないはひとまず置いておいて、身を任せるというのもありなのかなぁ。
建築と空間
国立新競技場のデザイン決定。
でも隈研吾さんの案に決定したかと思えば、伊東豊雄さんが隈氏の案はザハと似てて訴えられるかもと指摘、案の定ザハが反応。他にも本当にオリンピックに完成が間に合うのかどうかとか、まだまだ色々ある国立新競技場問題。
そんなこんなとは関係なしに(ちょっと関係ある?)最近建築について思うことがあってそれは建築を学んだり生業にしてる人は、建築を建築としてみてしまうきらいがあるんじゃないかなぁということだ。
建築には色んな側面があって、そのどれかが間違っていてどれかが正しいというわけでもないと思うけど、自分は建築というものは本来空間が主体だと思っている。
今この世界にある空間を観察、調理してどのような空間にするか、その結果生まれた舞台装置・副産物が建築なのではないかなと。
でも建築というものを学べば学ぶほど、空間よりもその副産物である建築に目がいってしまいがちになってるような気がする。
空間というものは目に見えないし、
建築を専門に学ぶ前のまっさらな頃、こんな部屋に住みたい、こんなところに行ってみたいといった願望の中には建築という考えはなくて、純粋に空間だけの追求をしていたように思う。
建築としての議論より空間としての議論をもっと重ねるべき
そうはいいつつも今日もまた建築を建築として描いてしまうのだった。