久しぶりに日記を書いた。
久しぶりに日記を書いた。
浪人をしていた頃は、毎週末にその週のまとめとなるような日記を書いており、その週に一体自分は何を成し遂げることができたのか振り返っていた。このおかげで予備校に通わずとも自分を律しながら勉強を続け、希望の大学に合格することができた。
浪人時代の一年は一日一日が貴重だった。
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DJ社長は好きなことで成果を出して生きていく
https://m.youtube.com/watch?v=n8O3svhKLEs
レペゼン地球という方の上の動画がyoutubeのおすすめに数日前からあがっていて、特に興味もなかったのでずっと放置していたのだが、今日なんとなしにラジオ感覚で見てみるか、、と思い見てみることにした。
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私の大学生活におけるサークルの意味
もう2週間ほど前になるが所属している2つのサークルの追いコンを終えた。
この記事で書いた通り
abingdonelinika.hatenadiary.jp
私は音楽系サークルAと文化系サークルBの2つのサークルに所属していた。両サークルともたまに顔は出すものの、本格的な活動には顔をださない。引退直後に書いた前回の記事から約1年と少しが経った。
今一度自分にとってこの2つのサークルがどのような意味があったのかを考えてみる。
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高校時代の後輩が亡くなった
高校時代の一個下の後輩が亡くなった
という知らせを高校時代の同級生から先日聞いた。
私が大学1年か2年の時のことで、既に2,3年も経っているのでとんでもなく遅い知らせではあるが。
享年18,19才とかだと思う。詳しい原因はわからない、しかし「自室で亡くなった」とのことでもしかしたら自ら選んだ道だったのかもしれない、と彼女は言う。
その後輩とは特別仲がいいというわけではない、しかし学校行事には積極的に関わり、交友関係も広い学校内での有名人だったので知っており、何度かは話したこともある。
人気者で常にみんなの輪の中心にいるリーダー的な存在で、でもただお調子者というわけでもなく、非常に聡明で古典や数学、哲学と幅広い興味と知識、そして独特の感性や考えを持った子だった。
そんな子が・・・衝撃だった・・・それも高校を卒業して、大学に入学し約一年くらいで・・・。
若い子が亡くなるのは悲しい。まだ高校時代の思い出も新鮮なまま残っている頃だろうに、同級生やその子に近しい関係の子達の当時のショックは計り知れない。
私は本当の死因を知らないので、憶測でしかものを語れないが、もし彼女の言うように自ら選んだ道なのだとしたら、、知らせを聞いたときは衝撃だったが、その一方でもしかしたら、あの子ならやりかねないという思いが頭を一瞬よぎった。
私みたいなその子と少ししか接点をもたない人間でも、その子が「思考」を好んでいたことがわかる。自らの頭の中で考える、考えて答えを見つける、死の直前まで、その子はありとあらゆることを考えたのだと思う。考えて考えて考えたうえで選んだ道がそれだった。
哲学者や芸術家が激しい自己の思考の後、辿り着いた真理が「死」であったと言う話もあるが、その子からはそういった真理を追究しようとする人々のもつ気迫や雰囲気が高校当時からあった。
何となくその子は将来、普通に就職をしたりするのではなく、何か自分の中の真理を追究し続けるような生き方をするのかな、とそう思っていた。
その結果がこれなのか
その子は一体何を考えていたのだろう。今となってはわからない。なぜならもうこの世にはいないのだから。
生きてさえいえれば、いくらでもきくことができるのに。
生きてさえいれば・・・・
死の直前その子は何を考えていたのか。
この知らせを聞いてから、私の心はやり切れなさと虚無感でずっと落ち着かないままでいる。
ずいぶんと時間が経ってしまったけれども、ご冥福をお祈りいたします。
卒業制作を終えての感想
発表など含む卒制に関わる全てが終わった。
危惧していた教授達を前にした発表も、特に変な質問が来ることもなく難なく終了した。やりきったという達成感よりも、やっとこのテーマから解放されたという思いの方が大きい。
以前の記事でも述べたが、この一年を振り返ると、ゼミの呪縛に縛られっぱなしで、それが足枷となって掴むことができなかったチャンスもあるし、一方でゼミのプロジェクトも自身の研究も上手くいかないばっかりだった。
最後の発表も、私は直前までまとめ方に迷い、ゼミの先輩・同期・後輩に大いに助けてもらいながら、なんとか漕ぎつけた。ゼミメンバーの力を借りながら、作業をしていたら、なんだかふと、私はやっとゼミの一員になれたんだという気がした。
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捨てられないもの
卒制を提出し終えた。発表等はまだ残っているので気は抜けないが、ひとまず休憩。
昨日は地域のシニア世代の方々に、生活をしていて捨てにくいもの、使いにくいものを挙げてもらいながらモノとの付き合い方を見直すワークショップの手伝いをしていた。
シニア世代向けだったこともあり、人生をどう終えるか、「終活」に関わる話も多く、モノをどう整理し捨てるかという話題がだんだんと中心になっていった。
4年前に住み始めたこの6畳の下宿先もモノが増えたなと実感する。書籍が増えたので本棚を買ったり、服は洋服ダンスいっぱいにまでなった。普段は空けないような引き出しからいつだかの授業のプリントがでてきたり、なんだかわからない保証書や契約書がでてきたり。画材の類もたくさんでてきた。
私は春から他大学院に進学するため、今からちまちまと引っ越しの準備を進めている。いざ整理を始めると、何の感慨もなく捨てれてしまうモノもたくさんあり、こんなものが今まで部屋を占領していたのかと思う。着なくなった服、旅行して衝動買いしたはいいもののほとんど使わずにただの物置と化したもの。
1人暮らしをしていると、毎週ゴミ捨てのたびに私はこんなにもゴミを生み出しているのかと実感する。
コンビニで弁当を買い、食べて、容器だけが残る。その容器を捨てる旅、この陽気は一体何のために生み出されたのだろうと思ってしまう。
大学の授業で、説明会で、いろいろともらった書類や資料。必要かもしれないととっておくも、今整理の段階でほとんど無価値なものだと気づき、ほとんど読み返すこともなく(いやもらった当時もろくに読んでいないだろう)捨ててしまう
一方で見返すことはほとんどないが、思い出があって捨てられないものも多い。高校時代のアルバムとかがその例だ。人生を歩めば歩むほど、過去の思い出が増えてきて捨てられないものが増えていくという現実に今からどうしようかなぁと悩む。実際今現在も、私の持ち物の中で昔の思い出に関連するモノが占める割合はそれなりに多い。
「モノをつくる」学問を学んできたこともあってか、モノってなんだろうなってよく考える。
なんの感慨もなく捨ててしまえるもの、捨てることが当たり前のモノも誰かがつくっているわけで。すべてのものに愛着を、とは難しいまでもモノ1つ1つを大切にしたい、と昨日のワークショップを通じて改めて思った。