旅するデザイナーとマフラー

旅する暮らしを目指しながら建築についてなど日々思うことを書いていきます。

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人と違う選択肢をとるということ

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 先日ゼミの後輩と教授が口論になっていた。
聞いてるとゼミ内で行っているリサーチ方法についてのようだ。
今のリサーチ方法に意義を見出しておらず、もっと別のリサーチ方法で取り組みたい、この方法だったらやりたくないという後輩の意見に対し、教授が淡々と説得しながらなだめているといったようなカタチだった。(言うほど口論でもないな)

「やりたいことはなに」という教授の鋭い質問・・・・。
彼がやりたいことはなんとなくわかる。しかしおそらく彼の中でまだ明確に言語化できていないし、どうしてやりたいかもわかっていない。でもとりあえずでもいいからやってみたいのだろう。

 

 彼の気持ちが痛いほどわかる。

しかし人と違った道を選ぼうとすると、それだけ説明責任を求められる、気がする。

 たまに今後の進路・人生の話を同期とする。論破しようと思って話すわけではないので、深くは追究しないが、なぜそれをやりたいのだろうといつも思う。
今日ふとなんとなく1人の同期に進路基準をねちねちと追究したら、最終的にはフィーリングという答えが返ってきた。まぁそうだろうし、それが悪いことだとは思わない。でもやはりその道で全うだと思われるルールに乗っ取ると説明責任を少し免れることができる気がする。
 
 昔何かの媒体で

「人と違うことをするということは、言い訳ができないから大変だぞ」

みたいなニュアンスの言葉を見てなるほどと思った記憶がある。

 まぁ人生においてほとんど全ての事柄は最終的には自分の選択で行うわけだから、この言葉は少し間違っている気がするけれども、とはいえ確かに人と同じ選択をすることはたとえそれが周りに流されていようが流されていまいが、その責任を社会とかコミュニティに転嫁することができる(実際には許されていないけれど、幾許か許される)気がする。

 同じ選択なら、お互いが言語化できてなくとも阿吽の呼吸で意思疎通しあえる(できた気になっている)し、たとえ失敗しても運が悪かったで済ませられる(行動が同じで結果が違うのならば運の要素が強かったんじゃないという人間のバイアス)。

一方違う選択をとるということは意思疎通もできないし、運ではなく自分で決めたんだから、と一刀両断されるし、そのことについてグゥの根もでないことがほとんどだ。より多くの説明責任にさらされ、厳しい批判に会うことも少なくない、悲しい運命だ。

 

 でも私はただその場のルールに従って流されているだけの人間より、その後輩の方がよっぽどいいと思う。

 

頑張れ若者!やりたいことをやれ!
とはいえ私も若者で、私も説明責任諸々頑張らないといけないのだけど.....