旅するデザイナーとマフラー

旅する暮らしを目指しながら建築についてなど日々思うことを書いていきます。

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呑み会の帰りにおもうこと

3月から関わっていた企画イベントが無事終わった、ので打ち上げに参加してきた。

こういうイベントごとに参加することはあれど、呑みの席に居合わせたのはとても久しぶりだ。

 

しかしやはり自分はこういった場は苦手だと再確認する。そもそも集団の中に混じると自分が一体どのような行動をとればいいのか全くわからない。まして呑みの席では役割など決まってないのだから余計にだ。それに席や会話はとても流動的でもう少し話したいと思った時には、すぐにもう別の人の別の話題へと移っていってしまう。どうも会話のテンポが遅い自分にとっては、いつもモヤモヤ消化しきれない思いを抱きながら時を過ごしている。

2人3人で静かにじっくり話したい。そういえば高校卒業間際の時期には、知り合いの後輩を1人ずつご飯に誘って2人きりでじっくり話し合ったっけ。少人数での会話はその人の人となりをきちんとしることができるから楽しい。仲の良い人はもちろんのこと、普段あまり話さないような人でも誘えるだけの勇気も持ち合わせていた。

高校の時は気軽にご飯誘って二人きりで出掛けることができたのに、大学に入ってから妙な緊張感でそれができない。なぜだろうか。まるで高校生から中学生に逆もどりしてしまったような感覚である。

結局誰も誘えない自分は呑み会という席で誰かと話さざるを得ないのだ。なんだかんだでこういった席では普段全く話さない人とも少しは話すことができて、人となりを2人きりで話すよりも深くはないけれど知ることができる。

大勢での席はやっぱり苦手だがだんだんと自分なりの楽しみ方を見つけだしてきてるのだろう。

きっと自分はどんなところに行ってどんなことをしてもそれなりに楽しく、それなりいに切なく悲しくなることになるのだろうと思ったが、それはそれで決して悪いことではないのかもしれない。

風景を描く

 

春休み終わりに金沢旅行に行っていた。

 

夜行バスに乗ってきたのでコンビニくらいしかやっていない早朝に到着。馬鹿なことに旅立つ前、最近修理したスマホもカメラも充電するのを忘れてしまったので、写真を撮ることも何か調べることもおろか時間を確認するすべもない。おなかもちょっとすいていたが、旅先について早々コンビニ弁当といのはプライドが許さなかったので我慢。せっかく画材を持ってきたので、風景を描くことにした。

 

静物やイラストとは違う、リアルタイムで移ろい変わってゆく風景を描くのはなかなか大変で今まで絵をかく時には使ってこなかった部分の脳を働かせたような感じがした。

 

でも一つの景色に時間を忘れるほど向き合い、風や温度を感じながら真っ白な画用紙に描いていくという経験はとても貴重だったと思う。思えば今の生活は常に時間に追われ、また情報も膨大にあるので一つのモノにこれだけ対峙するということ自体久しぶりだ。

 

美しいもの心動かされるものに飽きるまで対峙し心に描き留めておく、そんな風な時間の使い方ができるような人生をこれからは心掛けていこうかな。

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ブログ界はまさにカオス

 はてなブログを利用しているわりに、今まではてなブログトップにでてくる旬のエントリーやらなんやらに目を通したことがなかった。もともと熱心に誰かのブログを見るような人間ではなかったし、ブログを始めてからも自分のブログなんかほとんど見返さない。ではなんのためにブログをやっているのかと問われれば返答に困るが、多分自分の思考を文字に書きおこし、その過程で思考を整理したかったからだろう。そういう意味でこのブログはネットにいる不特定多数の読者のことなんか微塵も考えていない自分勝手なブログということになる。

 

  こんなブログがある一方で、不特定多数の読者をきちんと認識し、彼らに面白いコンテンツを与えんとするブログも多数あるようでそんな中で一日何万ビューも稼ぐ人々のことをプロブロガーと呼ぶらしい、昨日唐突にはてなブログ内を色々巡ってそんな彼らのブログに出会った、どこのブログとは言わないけれど。

注目されているものの特権として、そんな彼らのブログにはその記事の主張に対する反対意見や持ち上げる意見がとにかく入り乱れている。それだけならまだいいのだが揚げ足とりがあったり、途中から思いもよらない方向に火の粉が飛び散ったりしてどんどんとへんな方向へと発展していっている。そんな状態はまさにカオスであろう。

ブログなんて誰がどう運営しようがどういう主張しようが自由なのだから、放っておけばいいだろうと個人的には思うのだが、そうはいっても意味不明な主張をしている記事には噛みつきたくなる、一筋縄ではいかない矛盾を抱えているのが人間なのだから。そうして自らカオスの中に入っていってしまう、それがブログの醍醐味なのかもしれないけれども。

 

 プロブロガーの中には広告で収入を得ている人達もいるらしい。稼ぎを増やすためどうやって注目を集めるか必死に彼らは考える、面白い記事を書いたり、炎上商法のように挑発的な記事を書いたり。またブロガー本人にブランドがつけばありきたりな記事でもビューはかせげる。

 小学生の時だったか「働く」という言葉は「はた(傍)をらく(楽)にすること」という意味だと習った覚えがある。傍を楽にしたその対価としてお金をもらうのだ。しかしブログの台頭でその意味は大きく変わってしまったように思える。炎上だろうがなんだろうが注目されればされるほどお金がもらえるような仕組みが生み出されている。

そんな中でブログで収入を得るとなると主張の自由などと言っている場合ではないような気がするので、嫉妬や高慢その他さまざまな感情が芽生え、ブログ界がより一層カオスになる。そして今の現状に至るというのは当然のことのように思える。

傍を楽にせず、たとえ傍に不快感を与えても注目されればいいといった稼ぎ方が存在しているのはいささか確かに釈然としないが、そういうものがあってしまう以上やっぱりブログとは自由なものなのだから放っておけばいいというしかないのかもしれない。

逆を考えれば、カオスでないブログなどそれはブログではないのだから。

 

水道が使えなくなったの巻(3日だけ)

私は今一人暮らしをしている。

長期休みで久しぶりに実家に帰っていて、そしてまた1人暮らしのアパートに帰ってきた。

 

お風呂でも入ろうかな~

 

・・・

 

・・・・・・

 

・・・・・・・・・

 

水がなぜか出ない......!!!!

 

 

 

いや正確には出るのだけどすごく水圧が低くてちょろちょろとしてしかでない....。

不具合かなと思って2日くらい何もしなかったけどそれでもなおらないので、水道局に電話。水道局のお兄さん2人組があれこれ見てくれて原因が判明、どうやら元栓が閉まってたらしい。最近隣の人が引っ越したのだけど大家さん辺りが間違えたっぽい、そんなこともあるのね.....

 

 

 水がほとんど使えないといっても困るのはお風呂くらい......近くに銭湯あるし余裕でしょ...と最初はたかをくくっていたのだけど生活してみるとポットでココアはつくれないわ、歯磨きは不便だわ、食器は洗いにくいわと予想しないところで弊害が。

あげく銭湯休みだったのでしょうがないからちょろちょろとしかでない水をため、やかんで沸かして、それを水と混ぜてちょうどいい温度にして、それをお湯として体と頭を洗うのにつかうという....すぐなくなっちゃうので体を洗うのにも精一杯。

ガス壊れただけならまだ水風呂できるのだけどね、水がないとどうしようもない。予定もなく家に引きこもってられる日でよかった.....

なくなってはじめて身近なもののありがたさがわかってしまう、日常は決して当然のものではないのだなぁとしみじみしてしまったここ最近なのであった。

 

自分の手の届く範囲で

春休みという時間は課題もなく、自分の制作が捗る。各地で開かれてる建築卒制を見に行き、自分の設計に活かすべく建築を考えるもどうも思いつかず、図面は引けない。でも手は動きたくてうずうずしてるので時計やらなんやらをつくる日々。

 

ここ最近、まれにだけど自分は建築よりプロダクトの方が向いているんじゃないかなぁと思ったり。

別に大学でプロダクトを学んでるわけじゃないので、そういった方面に進んだ同級生とかに話聞いたりして感じただけだけど。

それにプロダクトといっても市場を調査して売れる商品をつくるというのはなんか嫌い。自分のつくったものが不特定多数の見ず知らずの人達の欲望の的になって使われていると思うとなぜか少し気持ち悪い。

 

なんでなのかを突き詰めて考えていくと、自分はきっと手の届く範囲の生活をつくりだしたいんだろうなという結論に達した(?)。

 

ターゲットユーザーを設定し彼らに対しデザインをする、社会における問題を見つけ出しデザインで解決していく、デザインで世界を変える!とデザイナー・建築家は言う(何もデザインに限ったことではないね・・・)。

重要だけど、もっと優先的に身近な自分自身の幸せを願ってもいいんじゃないかと思ったりする。自分1人の手の届く範囲なんてそう広くない。世界よりもまず自分と、そして手の届く周りの人々をデザインで解決していく。

それにその方が自分のものづくりがより身近に、現実味をおびて見えるから、楽しいと思うのだ。自分とその周りは自分でつくるとうのが性に合ってるのかもしれない。

 

建築はどうも社会的な責任というものが大きくなりすぎてて、その大きさこそが建築の醍醐味なのだろうけどね。

 

こんな考えで果たして社会でやっていけるのか不安にもなる、ものづくりが趣味の範疇から抜け切れてないからなのかなぁ。

 

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」を読んだ

 

モノをとにかく捨てようという話かと思いきや、どうすれば幸せに生きられるかというお話だった。

 

モノが全くない部屋でまるで修行僧みたいな生活をしているミニマリスト達による、ミニマリストに至るまでの過程とミニマリストになっていかに幸せになったかを解説している本。

モノを捨てる方法がつらつらと300ページにわたって書かれているのかと思いきや、そうでもなく人生を幸せに生きる方法について書かれていた。

 

ミニマリストについて自分が今まで勘違いしていたことは、彼らは別にモノを捨てたり、持たないことが好きというわけではなくて、それが彼らにとって幸せになる方法だからモノを捨てているということだった。

 

ミニマリズムは目的ではなく手段である。”

 

と本の中でも書かれている。

 

なんか色々考えるきっかけになった本なのでこの本を読んでみて、共感できたこと、これは違うと思ったこと、感じたことをつらつらーっとまとめてみる。

 

 

 

 モノとは物質的なことなのか

 

何もない部屋に机とパソコンだけ

 

本の中で紹介されたミニマリスト達の部屋はこんな感じ。

テレビもなければ本もない。どうしているのかと言うとPCの中に全て入っているらしい。本はスキャンし紙媒体は処分、映画などはネットで購入、現代のIT技術をふんだんに使ってるらしい。

 

でもこれって普通の人と何が違うんだろうと思ってしまった。彼らがモノを捨てるのはモノがあるとそこに時間や脳のキャパを割かなくてはならず、本当に必要なことが埋もれてしまうということらしいのだけど、物質的なモノがデータ上のモノに置き換わっただけでそれってそんなに変わるのだろうか。

まぁ視界がうるさくなるとか掃除が面倒くさいとか色々あるだろうけどそんなことって微々たるものじゃないかと思ってしまう。

以前スマホを壊して実感したことだけど、必要なモノが埋もれてしまう原因は物質的なモノの量ではなく、単純な情報量なんじゃないかと思う。

たしかに物質的なモノの量が減れば情報量も減るけど、スマホ等の電子媒体を減らさない限り情報量はそう減らないんじゃないかな....

モノの量は減ったけど、スマホやPCに集中的に依存する結果になってしまっているような気がしてならない....

 

 

 

モノに支配されるのは誰のせいか

 

大量のモノに埋もれていくなかで、人はいつしか道具としてのモノに逆に支配されるようになってしまったと作者は言う。

確かにその通りだとも思ったが、それですぐモノを断捨離してしまうのはどうかと思う。

 

言い換えれば、作者はモノとの関係性を考えることを最初から放棄してしまっているのではないか。

 

モノがなければそこに関係性は生まれないので、確かに楽だろう。でもそこに関係性を見出し、どうやって付き合っていくかを考えるのが人とモノなのではないか。

作者は以前モノにあふれた生活をしていたようで、モノと嫌になるくらい付き合って出した結論がモノをもたない生活=ミニマリズムなのでまぁいい。でもそれを考えずただモノを捨てればいいという考えの人がでてきてしまうと問題である。

別にこの本が悪いわけではないけれど、この本を読んだ人が勘違いして、モノとの関係性をちゃんと考えるというステップをすっ飛ばしてミニマリストにならないことを願うばかり.....

 

 

シンプルの弊害?

 

作者はミニマリストになり、好きな子に想いを伝える勇気が出て告白し付き合えたらしい。結局その後振られてしまったらしいが、それについて作者はミニマリズムが徹底していなかったせいだと反省している。

 

本当にそうなのかな?

 

この本を読んでいて、どうも作者はミニマリズムということに括り過ぎているような気がする。なんというか考え方までミニマルになっているというか.....

あらゆる出来事には原因があるけどその原因が一つとは限らない。というか一つなんてことは滅多にないと思うのだけど....

何かと最近シンプルな思考やシンプルなプロセスetcシンプルが流行っているような気がするけど、シンプルな思考をしていくプロセスのなか人は大事なものを見捨ていっているような気がする。

シンプルすぎるのも考えものだなぁと。

 

 

 

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書いていくとなんか異論しかでてこなかった........けど共感できた部分もいっぱい。

飽きのくだりとか、幸せとか。

なんにせよもう一度モノとの関係や生活を考えるきっかけをくれる良書だった。

スケッチ&スケッチ....

イラスト・車・プロダクトetc...なんでもスケッチしていく。

真っ白な紙になんでもいいから描いていくのは本当に楽しい。上手く描けたときは純粋に嬉しいし、うまく描けなかったときはどうしてなのか調べて分析してより本物に近づいていく....

描いていけば描いていくほどにモチーフへの理解が深まっていくような気がする。

 

 

「絵の上達過程」ググってでてくるサイトみたいに、いつか自分がうなるような絵を描ける未来を夢見て練習してるというのもあるけど、純粋に絵を描くことが楽しい。

 

とにかく描くのだ。

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アニメ「SHIROBAKO」で見る夢。

Blue-Layもってる知り合いがいたり、SNSのアイコンにしている知り合いがいたり、評判良いので名前自体はちょくちょく聞くけど、なんとなく絵柄から敬遠していたりして縁がなかったアニメ「SHIROBAKO」。

 

正月の昼間からTVで流れてるのを見て、ここで初めてアニメ制作の話だということを知り、まぁ作業の合間にちょうどいいかなと思って、知り合いにBlue-layを借りて、つい最近一気見。

 

全話見た感想・・・・感動した!!!どうして敬遠していたのか!!!!

アニメ業界の詳しい仕事とかはわからないけど、ひとつのものを大勢の人がそれぞれのスキルをつかってつくりあげていく過程とかは見てて楽しく、あと自分の生活と似てるものがあるような気がした。

 

こういう仕事ものがはやるって珍しいね、キャラもかわいいし。

夢という言葉は会社に入って仕事をしている時もつきまとっていて、悩み続けるものなのだなぁ。悩み続けることがある意味人生なのかも。

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