私が考えるのなんて追いつかないくらい、いろんな気持ちで世界は動いている。
大学も夏休みが近づいてきた。真っ白だった予定もちまちまと埋まり始めてきている。何もない夏休みっていうのも味気ないし予定が埋まっていくのは嬉しい反面、少しつまらなくもある。決まりきっている未来はつまらない。
今年度、1年間携わらなければいけないプロジェクトがあり、もうすでにかかわりをもったことに後悔し始めている。なんでこんなことをしてしまったのだろうか過去の自分は何を考えていたのだろうと殴りたくなるが、きっと今年度始めの自分はそのプロジェクトに対しワクワクし、やる気に満ち溢れていたのであろう。
昔の自分と今の自分は違う。
このブログも50記事に達し、ごくまれに昔の記事を見返すと昔の自分はこんなこと考えていたのだと実感させられる。自分は常に更新され続けているのである。そしてそのスピードは自分が思っているよりもはやい、とても、とても。
昔読んだ「惑星ハニー」というマンガでも言っていた。
・・・一番近い宇宙を知っていますか
ここ(心臓を指さす)
手を伸ばして 触れて
すべて知った気になっても
この中で何をかんがえているのかの全貌はわからない
私が考えるのなんて追いつかないくらい
いろんな気持ちで世界は動いている・・・
自分が変わる、他人も変わる、世界の全ては変わり続ける。たまにこの変わり続ける世界の中で長期的な計画なんてなんの意味があるのだろうと思う。
世界が変わるスピード、いやもっと主観的で身近な存在でとらえよう、自分の感情が移ろいゆく時間とプロジェクト等で拘束されてしまう時間って実はとても大きな隔たりがあるのではないだろうか。ヒトは移ろいゆく生物なのだし、その日その日一瞬の感情に身を任せて生きていくほうがもしかしたら健康的なのかもしれない。
しかしこの社会ではそういっていると仕事をもらうのもままならないので、ある程度先の未来のことを常に考えつつ行動する。そうじゃない自由気ままな人もいるのだけど今の自分には真似したくても真似できない。
夏休みの予定、楽しみなもの不安なものいろいろだけど近くになるとまたそれらの感情は移ろい変わってゆくのだろう。でも、少しこの社会から自由気ままになってみよう。予定はきっと変わる、いや変えてやろうではないか。そう思うと少し楽しくなってきた。
私っていう人間は絶望的な程自分のことしか考えられない
非常に大学に行きたくない。
責任に押しつぶされてきりたい授業がある。グループワーク的な感じで自分のつくったものをそのグループの人達全員が使う。授業内だけで使うのではなく、社会にも出していくような実践的な授業だ。実践的とは言えたかが大学の授業、本当に嫌ならきればいい。でもそれができないのはなぜなのか?
自分が責任を放棄したせいで他人に迷惑をかけるのが申し訳ない?そんな高尚な理由を自分のなかで立ててみたが全然違うと自分でも気付いている。そうではない、責任を放棄した自分が他人からどう思われているか気になるだけだ。責任を放棄したダメな奴だと思われたくない。
自分は絶望的な程自分のことしか考えられない。
この言葉が頭に浮かび、そういえばどこかでこの文面はどこかで見たことあるなと小一時間考え、ある漫画でのワンシーンであることを思い出した。
web漫画「霧中進行」という漫画でネモトというキャラの台詞だ。一部抜粋しておく。
自分の今までの人生
どうしようどうしようまた一人になっちゃった
どこかに入れてもらわないと
また一人になっちゃった
「 貴方の場合は苛めって言わないのよ
足を引っ張って実害を出してるの
どうして皆と一緒に出来ないの 」
私もそう思う!でも似たような人が集まるのが宗教だもん
・・・たまたまそこが合わなかっただけ
「 頑張ってるって言っても結果がついてこないのを
なんていうか知ってる?頑張ってないって言うんだよ 」
「 君さ物覚えが悪いってよく言われない?
頑張るのはいいけど誰が埋め合わせすると思ってんだろ
仕事した気になりたいだけだろ 」
「 ネモトなんで自分が周りから浮くか気付かない?
自覚ないとしたらそれ重症だよ
ネモト他人の気持ちとか全然考えてないんだもん
いつも自分の事ばっか
何やっても「好かれたいから」ってのが見え見えだもん 」
違うよ私が普通にしてると皆の足引っ張って迷惑かけるからむしろ皆に合わせられるように・・・
もしかして変だった?
不自然だったかな
迷惑だったらやめるよごめん
「 だからそういう所がさぁ・・・いいわ
ずーっとそうやって自分の事ばっかり考えてりゃいいよ 」
待って
また一人になっちゃう
私の悪い所全部直すから
『私の』
こうやって私のことばっかり考えてるから私はだめなんだ
『私は』
また『私』 『私』 『私』
私っていう人間は絶望的な程自分のことしか考えられない
なかなか複雑だけど面白いこの漫画については自分の思考の整理も兼ねて、いつか人記事書きたい。このブログをどれほどの人が読んでいるのかわからないし、そもそも読者を想定して書いているようなブログではあまりないのだけど(そこもまた自分本位である)、個人的にとてもオススメできる漫画なのでひっそりと宣伝しておく。
まぁそれはさておき、このシーンがまさに自分の言いたいことを体現してくれている気がする。他人のことを考えてるつもりでも結局自分のことを考えてしまう。居場所を探すけれども見つからない。他人からの奉仕ばかり求めてしまい、自分が他人に奉仕ができない、他人にとって自分はメリットがない、時によっては害となりえる。
他人に対する奉仕の精神を磨くにはどうすればいいのか・・・・いくら考えても自分のことを考えていることになってしまい、結局人生なんて自分の幸せが第一なのだからこのままでいいんじゃないかという気がしてしまう。まぁそれを貫き通して幸せになるのはなかなか難しいのだけど・・・。
500枚スケッチ始めました
自分は画力が圧倒的に足りない、最近なんどもそう痛感する。
かわいい女の子を描くのが圧倒的にうまい人、車を描くのがとにかくうまい人、コピックでどんな表現もできる人など絵がうまい人がまわりにたくさんいる自分のこの環境はとても恵まれているのだなと思う。そんな人たちの絵をみて圧倒されているだけではだめだ、自分もこういう人たちに追いつきたい。
そのためにはどうすればいいか・・・・
年内に500枚スケッチを描く!!
質を上げることはもちろん大事だ、だから作品もときどきあげる。でもやっぱり絵を描くということをもっと習慣づけたい、そのためには量を増やさねば。
もともと作品をあげるためにこのブログを始めたわけだし、より良い作品を生み出すためにまずは基礎的な訓練をどんどんこなしていこう。
こう書いているとまるでノルマを課しているような感じがするが実際は絵を描くのはとにかく楽しい、いろんな煩わしいことで作業を中断されなければずっと描いていられる。やはり絵を描くことが自分の生きがいとなりつつある、とてもよいことだ。
シンプルという言葉は嫌いだけどシンプルに生きたいというシンプルではない文章
今学期も半分くらい過ぎた。だんだん暑くなってきて家で作業するのも面倒くさい時期だ。できればだらだらしていたい。
4月に新学期が始まって今まで(今も)とにかくやるべきことが多かった。一つ一つは小さくてもやることが多いだけでこんなに辛くなるとは思ってもいなかった、何から手をつければいいのかの優先順位を考えるだけで頭がパンクしそうだ。実際パンクしていくつか取りこぼしてしまったことがあったし。
こういうときふとシンプルに生きようという言葉が脳裏に浮かぶ
小さい頃、いや最近までも「シンプル」という言葉が嫌いだった。「シンプル」という言葉を使いたがる人は自分をエリートに見せたがっている気取り屋に見える。それは今も変わっていない。
それにシンプルになればなるほど、余計なものを省き物事の本質だけを見つめていくようになる。でも人生なんて無駄だらけででもそこが楽しいのだからそこを削ってしまうなんてなんて味気ない人生だろうと思ってしまう。
しかしこうもやることが多いと余計なことを切り捨てていくことも重要なのかもしれないと思ってしまう。
年を重ねれば重ねるほど人は何かのプロフェッショナルになりたがるが何かをやり遂げないとプロフェッショナルにはなれない。一つの事をやり遂げるにはやることを厳選しないといけない。
悩ましい・・・・
論理的思考はいらない
ついこの間所属している団体でちょっとした揉め事があって幹部同士が議論していた。一方の幹部Aはもう一方の幹部Bのことを感情的・主観的と批判していて、幹部Bの受け入れを聞き入れない。幹部Aの主張はなんだかどこかひっかかるものの論理的には破綻していなくて幹部Bは言い返せない・・・・
主観的か・・・・
横で素知らぬ顔でこの議論を聞いていながら、主観客観についてつらつらと考えていた。客観的な視点から論理的に話すことが中学校・高校・大学とあがっていくにつれ重要視されるようになってきてそれができる人間が良しとされてきた。
でも幹部Aを見てるとどうも理論では納得できるのだけどなぜか釈然としない。なんだか最も重要な人間らしさのような部分が抜け落ちてしまっている気がしてしまう。
ほんとに理論的な考えができればそれでいいのか・・・・?
一体どうすればよいのかネットでいろいろ記事をあさっていたら以下のような記事をみつけた。
論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。
僕の幹部Aに感じていた違和感はこれだったのか。
理論に従えば自分の行いに今までも、そしてこれからも間違いはない。そういった心が幹部Aの中にはあるのだろう。
でも理論的であるというのはある種未来が見通せるということである。未来が見通せる人生はなにがおもしろいのだろうか。一寸先は常に闇だが、だからこそ手探りに全力で生きられる、人生とはそういうものだと自分は思うのだ。
頑張らないという選択
課題ラッシュがようやく終わった.....2か月に一回くらいやってくる課題ラッシュのたびに今回のラッシュが一番やばいと思っているが実際今回が一番やばかった。特にこの1週間昼夜というものがまるでなく、眠くて眠くてしょうがなくなったとき2.3時間眠るという感じ。
今回なぜこんな辛かったんだろうと考えてみる。
課題の量が多かったということも当然あるけどなんかやっててつまらない課題が多かった。
そして今回の課題ラッシュで失ったものは大きい。
自分のキャパを超えてしまい、疎かにしてはいけないものを疎かにしてしまった。 どうもたくさんのタスクを追われるようにこなし、忙しくしていることに喜びを感じるようになってしまっていたらしい。そういった考えにとらわれてしまっていた。何かをやっているという状態こそがヒトが活きているということなのだと錯覚していた。
そうではない。いつももっとマッタリ過ごしたいと言っていたのにこれでは、真逆ではないか。
自分の状況からもう少し範囲を広げて、大学でも経験することこそ正義のように扱われている。インターンにいくこと地域のために活動することetc.... みんな様々な活動をして頑張っている、時に嫌がりながらも将来のためと自分をなだめ、時に感情を押し殺している。
そんなに頑張ってどうするのだろう。なにになるのだろう。なんのために頑張っているのだろう。そもそも頑張るとはなんなのであろうか?
行動するから・頑張るから良いのではない・幸せになれるのではない。
またこの時期がやってきた(課題ラッシュ)
課題ラッシュの時期.....寝れなかったり変なところで寝たりで体の節々が痛くなってきた。
あと一週間くらいはこんな日々が続きそう.....
まぁこんな忙しい時期だからこそ、ほっと一息ブログでも更新する。
なにかを書き留めるというのは足を止めて、過ごしてきた時間を振り返るためにあるのだろうな
振り返りつつちまちま課題やろ
出会いと別れの夢を見る
奇妙な夢を見て目が覚めてしまった。
昔の思い出の人達に再会するという夢。笑顔の再会もある、気まずい再会もある。
当時の出来事をそのまま夢に見るということはあっても当時の人達に今現在再び出会うという夢はほとんどなく(もしかしたら初めて?)新鮮であった、どういう心理なのだろう。
昨日は知人の紹介でとあるイベントで開かれるワークショップの手伝いをし、その後そのイベント参加者達とで1時間程度の小規模な懇親会をやった、小規模と言っても80人くらいはいるけれども。一日かけてイベントを一緒に準備し終わりにはイベントをやりきった達成感で参加者全員が一体感がある、懇親会も色んな特技をもった人達と交流できて楽しかった。しかしその一方で縁もゆかりもない土地で僕がこの人達に出会うことはもうないのだろうなと思ってしまった。
一日の中で出会いから別れまでの流れを体験して、今まで小中高その他のもろもろでの出会いと別れを思い出したのだろうな。
人生は有限できっと会いたいときに会いたい人に合わないと一生会えない。
昔の友人達に久しぶりに連絡をとってみようかな。