論理的思考はいらない
ついこの間所属している団体でちょっとした揉め事があって幹部同士が議論していた。一方の幹部Aはもう一方の幹部Bのことを感情的・主観的と批判していて、幹部Bの受け入れを聞き入れない。幹部Aの主張はなんだかどこかひっかかるものの論理的には破綻していなくて幹部Bは言い返せない・・・・
主観的か・・・・
横で素知らぬ顔でこの議論を聞いていながら、主観客観についてつらつらと考えていた。客観的な視点から論理的に話すことが中学校・高校・大学とあがっていくにつれ重要視されるようになってきてそれができる人間が良しとされてきた。
でも幹部Aを見てるとどうも理論では納得できるのだけどなぜか釈然としない。なんだか最も重要な人間らしさのような部分が抜け落ちてしまっている気がしてしまう。
ほんとに理論的な考えができればそれでいいのか・・・・?
一体どうすればよいのかネットでいろいろ記事をあさっていたら以下のような記事をみつけた。
論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。
僕の幹部Aに感じていた違和感はこれだったのか。
理論に従えば自分の行いに今までも、そしてこれからも間違いはない。そういった心が幹部Aの中にはあるのだろう。
でも理論的であるというのはある種未来が見通せるということである。未来が見通せる人生はなにがおもしろいのだろうか。一寸先は常に闇だが、だからこそ手探りに全力で生きられる、人生とはそういうものだと自分は思うのだ。
頑張らないという選択
課題ラッシュがようやく終わった.....2か月に一回くらいやってくる課題ラッシュのたびに今回のラッシュが一番やばいと思っているが実際今回が一番やばかった。特にこの1週間昼夜というものがまるでなく、眠くて眠くてしょうがなくなったとき2.3時間眠るという感じ。
今回なぜこんな辛かったんだろうと考えてみる。
課題の量が多かったということも当然あるけどなんかやっててつまらない課題が多かった。
そして今回の課題ラッシュで失ったものは大きい。
自分のキャパを超えてしまい、疎かにしてはいけないものを疎かにしてしまった。 どうもたくさんのタスクを追われるようにこなし、忙しくしていることに喜びを感じるようになってしまっていたらしい。そういった考えにとらわれてしまっていた。何かをやっているという状態こそがヒトが活きているということなのだと錯覚していた。
そうではない。いつももっとマッタリ過ごしたいと言っていたのにこれでは、真逆ではないか。
自分の状況からもう少し範囲を広げて、大学でも経験することこそ正義のように扱われている。インターンにいくこと地域のために活動することetc.... みんな様々な活動をして頑張っている、時に嫌がりながらも将来のためと自分をなだめ、時に感情を押し殺している。
そんなに頑張ってどうするのだろう。なにになるのだろう。なんのために頑張っているのだろう。そもそも頑張るとはなんなのであろうか?
行動するから・頑張るから良いのではない・幸せになれるのではない。
またこの時期がやってきた(課題ラッシュ)
課題ラッシュの時期.....寝れなかったり変なところで寝たりで体の節々が痛くなってきた。
あと一週間くらいはこんな日々が続きそう.....
まぁこんな忙しい時期だからこそ、ほっと一息ブログでも更新する。
なにかを書き留めるというのは足を止めて、過ごしてきた時間を振り返るためにあるのだろうな
振り返りつつちまちま課題やろ
出会いと別れの夢を見る
奇妙な夢を見て目が覚めてしまった。
昔の思い出の人達に再会するという夢。笑顔の再会もある、気まずい再会もある。
当時の出来事をそのまま夢に見るということはあっても当時の人達に今現在再び出会うという夢はほとんどなく(もしかしたら初めて?)新鮮であった、どういう心理なのだろう。
昨日は知人の紹介でとあるイベントで開かれるワークショップの手伝いをし、その後そのイベント参加者達とで1時間程度の小規模な懇親会をやった、小規模と言っても80人くらいはいるけれども。一日かけてイベントを一緒に準備し終わりにはイベントをやりきった達成感で参加者全員が一体感がある、懇親会も色んな特技をもった人達と交流できて楽しかった。しかしその一方で縁もゆかりもない土地で僕がこの人達に出会うことはもうないのだろうなと思ってしまった。
一日の中で出会いから別れまでの流れを体験して、今まで小中高その他のもろもろでの出会いと別れを思い出したのだろうな。
人生は有限できっと会いたいときに会いたい人に合わないと一生会えない。
昔の友人達に久しぶりに連絡をとってみようかな。
我々はどれほどこの「世界」を知っているのだろう?
大学ではファインアートではなくデザインを学んでいる。
デザイン・設計を学びはじめまだほんの2.3年しか経っていないがどうすれば上手く進むのか、どういったものがいいのかほんのちょっと少しずつでもわかってきた。
分析や調査を行い、最初の糸口にさえたどり着けばどおのずとカタチや空間が見えてくる。それは数学で解を見つけ出すような感覚に近い、もともとある答えを探り当てるようなものだ。問題は相手が提示してくれている。向き合うべきは相手だ。
ファインアートは難しい、自分と向き合う、自分を知り自分の中からまだない答えをうみださなければならない。自分と本気で向き合い、絵でも文章でも自分を本気で表現しようとすると自分のつまらなさ、底の浅さにうんざりする。自分は世界を何も知らないのだと痛感する。ここでいう「世界」とは大学生が「社会経験」などの意味で使う「世界」ではなくもっと広い意味での「世界」だ。
木々はどういった枝葉をしているのか?空間とはなんなのか?光があるとなぜ影ができるのか?言葉とはなにか?etc...
この世の中を構成しているものこと全てをひっくるめた「世界」にはまだまだ知らないことが多すぎる。そんな世界に生きていて自分はどれほどのことを知っているのだろうか?どれほどの疑問に気付いているのだろうか?
聞きかじった話で知った気になっているだけで自分の中に残っていない、だから自分を表現するときにいつも詰まってしまうのだ。
この世界に自分はどれだけ本当に向き合ってきたのだろう?
課題やらなんやらとにかく忙しく充分に思考する時間もなく小手先だけの表現でその場をしのいできた生き方をやめ、充分に世界と向き合い、充分に自分を表現したい。
グリザイユ画法で絵を描いてみた
「狩人」
グリザイユ画法というモノクロの絵を完成させたあと、着彩をしていくという画法を用いてイラストを描いたのは初めてだがとてもやりやすい。
イラストを描き始めるようになったのはほんの一年くらい前からで、それまでは絵を描くといえばデッサンだった自分にとって彫刻のように大まかなカタチから細部へと、陰影を追って描いていくという作業はそこそこ慣れている。パーツ毎にレイヤー分けをして塗り絵のように着彩することは憧れるがまだまだ自分は使いこなせないと感じる。
モノクロの世界に原色が一色だけはいるという構成が最近お気に入り
かわいい大西麻貴さんと建築
現代建築家コンセプトシリーズ⑰大西麻貴+百田有希/o+h』を購入。o+hは「二重螺旋の家」を偶然ネットで見つけてからその発想と絵本の世界のようなスケッチに惹かれ、興味をもつようになった。内容は設計のことだけじゃなくて施主とのやりとりの様子や構造、材料まで様々で読み応えがあった。でももうちょっと住み手の生活を知れるような文章や写真があればよかったかも。
o+hに興味をもつようになった理由は実はもう一つあって、それは大西麻貴さんの容姿が非常にかわいくて自分の好みだということ。それでいて京都大学というのだから才色兼備な方なんだなぁと。在学中はきっと学科のマドンナ的存在だったんじゃないかと邪推する笑。
「大西麻貴」の予測変換でも「大西麻貴 かわいい」って出てくる。
みんな同じことを考えてるいるんだなと思って最初のほうにでてきたサイトを開いてみると、「かわいい」は「かわいい」でも違う「かわいい建築」についてだった。
かわいい建築ってのは建築学生なら聞けば「ああいうタイプのやつか」ってのが分かると思うんだけど。SANAAとか妹島さんとか石上純也さん中山英之さん大西麻貴さんみたいな、ぺらぺら人間+白+植物+ぽわわ~、な感じのドローイングを特徴とする一派だよね。もちろん厳密にはそれぞれ違うけど。
O+hやSANAAの建築のあの雰囲気を「かわいい」という言葉を使って表現するのは実に言いえて妙だな笑。
(↑かわいい模型とぽわわ~んとしたスケッチ)
またそのブログではこうも言っていた。
あとはスケールの問題がある。かわいい建築はかわいいドローイングをそのまま実空間に立ち上げたようなものを目指しているけど、実際にそれが馬鹿でかい建築として現れたらかわいいのかどうなのかと。本城直季風の写真で無理やりかわいく撮っちゃったりしてね。
二重螺旋の家も初めて見たのは模型で、それに惹かれたのだったということを思い出す。実際に建った写真もそのあと見たけど別に実物を目の前にしたことはないので、確かにそのスケールが前に立ちはだかったら果たしてそれは模型がもっているかわいらしさは残っているのかというと疑問ではある。記事を読んでいて確かにかわいい建築のある種の気持ち悪さというものがわかったような気がする。
でもなんだろう、それってちょっと面白いんじゃないかなとも思った。模型が大きくなったというよりも自分が小さくなって模型の中に入り込んでしまうような、そんな感じの非日常(?)的な空間体験をすることができるんじゃないのかな。まぁ二重螺旋の家は戸建住宅なので非日常感なんてものは普通いらないのだけど、これらの建築のもつ非日常的な面白さや気持ち悪さが日常との間のズレを生じさせるなんてことは恐らくなく、むしろいい具合にマッチするんじゃないかと自分は思うのだ。
切羽詰まった感じや気持ち悪さはきっと、同時に面白さやワクワクを兼ね備えているはず.......
建築においてまだまだ未熟だけど未熟な頭を使って考えてみた。1年後には意見変わってるかもしれないけど、こういう時過去の考えを見直すこと備忘録は役に立つんだろうな.....
二重螺旋の家のスケッチ模写。ぺらぺらぽわ~んではなく重量ある感じで描いてみた。
「少女T」の「T」は「杖(つえ)」の「T」です。
この絵を描いてるときに便宜上つけた名前が「セーラー服と杖」という見たまんまの名前だったのだけどpixivにのせる際に、一応少しちゃんと考えた名前にしようと30秒くらい考えた結果「少女T」となった。
モノクロの世界の中に原色ビビットなカラーが一色入る構成が最近好き。
photoshopでお絵描きするの楽しい。まだまだ粗削りだけど。