「社会人」という概念の謎さ、「学生」から「社会人」になるとはどういうことなのだろう
「社会人」という言葉について意識的に考えたことはあるだろうか。
先日シェアハウスで就活の話になったとき1人の住人が私に対しこう言った。
「かなたもついに社会人になるのかぁ」
その時、なぜだか今まで気にしたことがなかった「社会人」という言葉に対し、私は非常に違和感を覚えたのだ。
社会人という言葉に違和感を覚えた理由
定義が曖昧
よく言われる社会人の定義に、自分一人で自立できているかというのが挙げられる。なるほど自分が稼いだお金で、自分の生活を賄っていることが「社会人」の定義か。
しかし例えばアルバイトで学費・生活費を全て賄っている学生はどうだろうか。定義によると「社会人」ということになるが、一般的にそういった人物の存在はスルーされる。なんならバイトで生計を立てている人に対し「社会人になってしっかり働きなよ」なんて言う人もいるが、どういうことなのだろうか。そう言った人たちの中では社会人=正規雇用という図式があるのかもしれないが、その理論だとフリーランスの人はいくらお金を稼いでも「社会人」ではなくなってしまうのだろうか。
学生という言葉の対比に使われている
自分がシェアハウスの同居人の発言に大きく違和感を感じたのは、「社会人」と「学生」を明確に区別させられたからなのではないかと思う。
「社会人」の対比で「学生」という言葉がよく用いられる。「社会人になったら遊べないから学生のうちに遊んどけよ」とか。
しかしよく考えてほしい。多くの学生はバイトというかたちでお金を稼いでいるが、彼らを「社会人」と呼ぶのはおかしいのだろうか。
例えば、デザインを学んでいた私の友人は、学生時代から自分のデザインを売り込み、クライアントの問題をデザインで解決し、お金をもらっていた。彼の生活はフリーランスさながらであり、「社会人」と呼んでもいいのではないだろうか。
思うに、私達は「学生」と「社会人」を大きく隔てすぎなのだと思う。「学生」から「社会人」への変遷が大げさに捉えられすぎていのだ。
確かに一般にはサービスを受ける側から与える側へと移るという意味で大きな転換ではあるかもしれない。しかし学生もバイトはするし、プロジェクトなどを通じて、他者にサービスを提供する機会は多い。逆に新卒入社した人も研修という名のサービスを会社から受けているのではないだろうか
もっとそれらはグラデーションのように曖昧なもの。就職するとは、ただ「学生」という肩書が抜け落ち、例えば「○○会社のエンジニア」という肩書が追加されるだけのことなのだ。
「学生」は自分を表す要素の一つでしかない
しばしば「学生」の立場の人は、バイトやサークル・研究室の経験を「学生のときの体験の1つ」にしてしまいがちだ。それは恐らく現在の自分の立場・肩書というものが「学生」ただ一つだけだと思い込んでしまっているからなのではないかと思う。
そして多くの人が就活を大きなイベントとして認識しているのは、今まで自分を構成していた肩書は「学生」ただ1つであり、就職とはその肩書を全て捨て去り、すべて生まれ変わった姿で「社会人」になる、そのような認識でいるのかもしれない。
しかし実際は違う。「学生」なんて肩書は人間の一面しか表していない。
1人の人間を「学生」の一言で、表すことは不可能である。誰だって「学生」だが、時には「レストランのウェイター」だし、時には「バドミントンサークルのリーダー」なのである。
逆に社会人と呼ばれる人も「グラフィックデザイナー」であり、「草野球の5番キャッチャー」であり、「父親」なのである。
人は時と場合に応じて、様々な肩書を持っている。もっと複数の肩書を積極的に使っていくべきなのだ。
様々な肩書をもつ人々に対し「学生」とか「社会人」とかの言葉だけで集約してしまうのは非常に横暴で勿体ないことだと思う。
「社会人」とはなにか
では「社会人」とはなにか?
自分が思うに、社会と関わっている人は全て社会人なのではないかと思う。
「社会人」という枠組みの中に「学生」だったり、「営業マン」だったりがあり、それらの複合体こそが個人なのではないか。
逆に言うと私は「社会人」です、の一言で表せるような人間はロクな人物ではないと思う。
言葉定義なんて曖昧で時と共に変わっていく。言葉一つとってあれこれいうのも野暮な話だけれども、言葉によって人は支配されてしまうのだから、いつだって納得した言葉を使っていきたいと最近は思う。
世の中が「社会人」といった単一で曖昧な肩書で名乗るのではなく、「学生でデザイナーで旅人」のような様々な肩書きを名乗って生きていけるような、そんな人々を許容する社会にもっとなっていってほしいと願う。