常識とは偏見のコレクションである。
最近ちょっとしたことでもヒトにいらついてしまう。
昔は気にもならなかったような些細なこと、自分とは違う考え、方法を好奇の目ではなく拒絶の目で見るようなことが多くなった気がする。
ヒトを許せなくなった。
自分がヒト許せなくなっていったのか
それとも
ヒトが、自分のもともと許せないと思っていた方向に足をどんどん踏み入れていったのか
まぁきっと両方なんだろう。
アインシュタインが言っていた、
「常識とは18歳までに得た偏見のコレクションである。」
(Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.)
自分の常識と、ヒトの常識、偏見によりそれらの範囲はどんどんと狭くなっていき、交わりが、消えていく。
年齢を重ねるにつれ常識という名の足かせが増えていく、
自我がよくないのか、それなら自我はいらない。流れる水のようにいきていきたい。
我が家には中国の哲学家・老子が書き記した「タオ」と呼ばれる本があり、自分は幼いころからその本を何度も繰り返し読んでいた。
流れる水のように生きる、かつては当たり前だとおもっていたこの考えが年齢とともに実行するのが難しくなっていった。
凝り固まった身体を溶かして水とする、常識など忘れてしまいたい。