旅するデザイナーとマフラー

旅する暮らしを目指しながら建築についてなど日々思うことを書いていきます。

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Living Big In A Tiny House - 小さな家にでっかく住む -

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youtubeをフラフラしていたらこんなチャンネルを見つけた。

世界各国のDIYハウスや移動式住居、たまにはごく小住宅とありとあらゆる普通の家ほど大きくないけど豊かに生活している人たちとその家を紹介するというチャンネルだ。

 

このチャンネルには小さいころに誰もが夢見たようなワクワクする家が詰まっている。

 

世界にはこんな風に生きている人がいるんだということを知れて心が躍る。

 

唐突だが自分の人生の夢は、移動式住居に住むこと、もしくは居住地を転々としながら生活することだ。

 

しかし

 

日本にいて、就活だとかの時期に差し掛かっている今、自分が過去に夢見たものたちは所詮夢なんだと思わされてしまうことが多いけど

 

幼いころの夢、大人になっても密かに抱き続けているものは

 

夢ではなく現実なんだと教えてくれる

 

とてもいいチャンネルに出逢えた。

 

これからも、旅を続けよう。

セブンイレブンの煉瓦がプリントだった件

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タイトルのとおり。

 

ふとセブンイレブンの壁をみたらプリントだった。

 

 

ご丁寧にエッジが光って見えるようになっている。

 

以前自然素材だけで立体を構成するという課題が出された。

その先生曰く、人工的なアスファルトとかプラスチックに比べ自然の石などは素材としての強さがあるらしい。

というわけで道を散歩して自然素材を探しに歩き回ったのだけど、それが全然見つからない。

そして講評の時、先生が言ったことがとても印象に残ってる。

今自分達が住んでいる街はアスファルトで舗装された道、サンディングの壁と人工的なものばかり。自然なんてありやしない。

 

その授業で言われるまでそんなことには目も向かなかったし、セブンのプリントレンガも最近やっと気付いた。

 

僕らはそういった弱い空間の中で、偽物に囲まれて生きている。

 

でもそういった偽物に囲まれながらの生活が生まれたときから当たり前だったらそれがいつしか本物になっていくのかな。

 

ごちゃまぜの家

とっても面白そうな活動をみつけました!

 

camp-fire.jp

 

無料で誰でも立ち入れて、本を読めたり料理したり、一緒にたまたま居合わせた人々と談笑したり。

 

誰もが立ち寄れるサードプレイスのような場所。

 

実際に行った人の感想をみても、とてもあたたかみのある空間ができていたそう。

 

こういった新しい価値となる空間を生み出したい。

スクランブル交差点の中心で自由を叫ぶ

 

最近色んなYouTuberの動画をよく見ています。

 

中年層とそれ以上の世代とかからはYouTuber何それ状態だし

 

TVやマスコミは、小学生のなりたい職業ランクにYouTuberが入っていて日本の将来が心配みたいな報道をしてる

 

確かにそういう側面もあるかもしれないけれども

それでもやっぱり面白い動画を撮り続けるクレイジーながらも素晴らしい動画クリエイターがたくさんいる。

 

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モンゴルの移動式住居「ゲル」で家と共に旅を!!

この動画、モンゴルの移動式住居「ゲル」がどうやって組みあがっていくかがとても分かりやすく紹介されています。

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私は旅人になりたい

私には夢があります

 

それは旅をしながら生きること

 

このブログのタイトルにもなっているように「旅」という言葉は私の人生の中で大きなウェイトを占めています。

 

思えば高校・大学の友人、母親の友達からバイト先の同僚まで、様々な人から私は将来どこか外国を旅していそうと言われ続けてきました。そして私自身もいつかきっと自分は旅をするのだろうと思ってこれまで生きてきました。

 

大学も4年になった今、私は未だ旅をしていません。

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睡眠欲

身近に「寝すぎじゃない」みたいなことを言う人達がいる。

 

そういう言葉を聞くたび、いやそれは僕の勝手でしょと思うのだが、

睡眠欲っていうのは一番本能に正直な欲求なのかもしれない。自制が聞かないというか。

例えば4時間だけ寝るつもりが8時間も寝てしまったとき、人は後悔したりするが、そもそも身体的にはそれはきっと正しいことなわけで。

最も実直な本能を理性やら規律やらで封じ込めたくはない 

 

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常識とは偏見のコレクションである。

最近ちょっとしたことでもヒトにいらついてしまう。

 

昔は気にもならなかったような些細なこと、自分とは違う考え、方法を好奇の目ではなく拒絶の目で見るようなことが多くなった気がする。

 

 

ヒトを許せなくなった。

 

自分がヒト許せなくなっていったのか

 

それとも

 

ヒトが、自分のもともと許せないと思っていた方向に足をどんどん踏み入れていったのか

 

まぁきっと両方なんだろう。

 

 

 

アインシュタインが言っていた、

「常識とは18歳までに得た偏見のコレクションである。」

 (Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.)

 

 自分の常識と、ヒトの常識、偏見によりそれらの範囲はどんどんと狭くなっていき、交わりが、消えていく。

 

年齢を重ねるにつれ常識という名の足かせが増えていく、

自我がよくないのか、それなら自我はいらない。流れる水のようにいきていきたい。

 

我が家には中国の哲学家・老子が書き記した「タオ」と呼ばれる本があり、自分は幼いころからその本を何度も繰り返し読んでいた。

流れる水のように生きる、かつては当たり前だとおもっていたこの考えが年齢とともに実行するのが難しくなっていった。

 

凝り固まった身体を溶かして水とする、常識など忘れてしまいたい。