本を読むということ、誰かの話を聞くということ
サークルに新しく入ってきたとある1年生はなかなかの経歴の持ち主でとても面白い。
高校を卒業し数年間フラフラしていたものの急に数学に目覚め、猛勉強の末大学に入った。大学に入った後も、自身の専門にとらわれることなく興味のある分野を幅広く学んでいる。
別に高校卒業後フラフラしてるだけなら自分もそうだったし(一年間の宅浪期間は受験生というより気ままなニートだった)、自分自身も専門以外の興味のある分野を聴講したりしている。
しかしそんな彼の話は自分とは比べものにならないくらい面白い。
教養が深いのだ、どんな分野のことでも自分の言葉で説明したうえで自分の考えを述べられている。
どうやらとにかく本を読みまくっているらしい。なるほど。
誰かと話すとその人の考えを知れる、そして吸収できる。知識・教養の幅とはどれだけいろんな人と話したかだと自分は思っているし、自分もいろんな人と話そうとしているが、しょせん学生、いろんな人と話そうとしても同じような年代・考えの人しか近くにいないのだから結局あまり幅は広がらない。
でも本は違う。生きた時代、生きた土地、年齢も分野も違う人の話を本を読むことで聞くことができる。知識・教養の幅をひろげられる。
本のデメリットとして一方的な会話になってしまうことがあげられる。「それどういう意味?」と聞いても本は返してくれない、どんどんと自分の話を進めていってしまう。
だからわからないところがあると、せっかく話してくれたことも自分のものにできぬまま、終わってしまうことも多い。そのまま知らないでいることもできる、しかしその答えをほかの本に聞くこともできる。そうすることでどんどんと連鎖的に知識が増えていく。
その後輩は質問の答えを探すためありとあらゆる本に手を出し、どんどんと教養をふかめていっているのだ。
そんな後輩の姿にあこがれた、本の中の人々と話をしてみたい、そんな気になった。
とりあえず手元にある「責任という虚構」でも読んでみるとするか。
500枚スケッチ -100枚経過-
やっと100枚描けた・・・
実は高校のとき1日1枚スケッチをしていたので100枚という数は余裕かと思っていたけど、こんなにも大変だとは・・・・
7月初めから始めたので単純に考えて1日2枚、高校のときの倍だ。
100枚経過してわかったこと
・描くことが習慣になる
最初のころは何かと理由をつけて描けないこともあったりしたが、
だんだんと描くことが日常に入り込んで何も意識せずとも描くようになった。
・どこでも絵が描けるようになる
描かないとという気持ちから自宅以外の友人宅や外でも描けるようになった。
・描くことが以前にまして楽しくなる
描くこと楽しい・・・・
こんな調子で500枚描けるのか・・・ちょっと不安だけど頑張ってみる
「アート」という言葉に対する不信感
つい最近ヘッダーの言葉を変えた。
変更前↓
変更後↓
「アート」という言葉に対する不信感が最近激しい。アートという言葉を見るだけでなんだか胡散臭さを感じてしまい、その胡散臭さみたになものに自分が染まってしまうのがなんだか気持ち悪いので、言葉を変えた。
関わっている団体でアートという言葉を扱う機会があった。アートを通じてコミュニティを増大させる、アートを通じて地域を活性化させる。
それらの取り組み自体は間違ってないとは思うし、アートという言葉本来の意味にはあっているのだろう、納得はできる。
ただ「アート」という言葉がコミュニティ増大等の目的の単なる手段の一つとなってしまっているように思う、その裏にある経済効果などが透けて見えているような気がしてしまうのだ。
アートと銘打つからにはつくりだした作品やその作品を作り出す過程こそ最も重要視すべきだと自分は思う。
その作品を通じ何を五感で感じ取ったか、何を得たか、そういったところが見逃され、仲良しコミュニティが増えましたよかったねで終わってしまう現状がちらほら見受けられるのが今のアートの残念なところな気がする。
しかしここのところは自分でもまだ整理しきれていない。作品というものに自分はこだわりすぎているのだろうか。
うーん美術=アートと訳されがちなのもよくないのかもしれない。
今度またじっくり考えよう・・・。
アートの代わりにお絵描きなどという幼稚な言葉を使うのもどうかと思うが、ボキャ貧な自分にはいい言葉が見つからないし、そんな言葉でも「アート」などという言葉よりは何十倍もマシなのだ。
折り紙コンベンションに参加した話
先日第22回折り紙コンベンションというものに参加してきた。
なんでも近所の子が折り紙好きらしく父親から連れていくように頼まれたのである。
自分自身もかれこれ10数年前に一度参加したことがあり(理由は忘れた)、だから父親も僕をチョイスしたのだろう。
実家から離れたところで開催されるが、日本全国で考えれば近い方なので文句は言えない。九州の方からこのために来る人もいるそう。
折り紙の折り方を教えてくれる講習会と、色んな作品が展示してある展示会からなるが自分の目的は展示会。どんなものがあるか楽しみだった。
やはり折り紙のプロ(?)達の作品はすごい、たった一枚からどうやってこれを負ったんだというものがたくさんある。
あと前に一度来た時もキングギドラ等があった記憶があるが、ほかのメディアに比べて何故かドラゴン系の作品が多い気がする。かっこいいからかな?
折り紙作品は造形よりも、一枚の紙という他の立体作品とは比べ物にならないほどの制約のなかでこれをつくったという事実ですごいと思うことがほとんどである。よって普通の立体作品と比べるとつよさみたいなものがあまりない。しかしこの会場にあった作品はそれを乗り越え純粋に造形としてすごいと思うものがたくさんあった、個人的に気にいったものの一部をあげる。
展示されていたドラゴン系のなかで一番良かった、元ネタを知っているからかもしれない。質感も表現されていてよかった。
マーメイド
どこがつくったのかは忘れてしまった。色味、造形ともにマーメイドの妖しさがでている。
堕天使
個人的に一番好き。一目見た瞬間からその造形にほれぼれした。ましてやこれが折り紙なのか・・・。
会場で折り紙の本を買ってしまったし、久々に折り紙でも折ってみようかな。
藤原麻里菜さんがかわいい
youtubeで「無駄づくり」というチャンネルを偶然見つけた。そのチャンネルの運営者の藤原麻里奈さんがかわいい。なんだか惹きつけられる顔だったり雰囲気がある。
アイデアもなかなかぶっとんでいて見ていて飽きない。
こういう方が彼女だったら、いや身近にいるだけでも毎日が楽しいだろうなぁ。
どんどんとアイデアが湧き出てそれのプロトタイプをつくってということを続けられるのはものをつくる勉強をしている自分にとって素直に尊敬できる。
なんだか最近ものをつくれていないなぁと思う。モノをつくるときにコンセプト、使いやすさや、今からつくるモノのメリット、ポートフォリオにのせられるか等、何かとか色々余計なことを考えることに時間を割いてしまい、手を動かしてモノをつくる時間が減ってしまった。
(一人暮らしでお金がないということもあるが)
モノをつくることをあまり楽しめていない。
自分のつくるものはどんな形であれ社会に出してみられてしまうということを意識してしまい、より余計なことを考えモノをつくれない・・・・悪循環だ。
高校のときや大学入りたてのころはそんなことを考えず、純粋につくることを楽しんでいた。自分がこんなのあったら楽しいだろうなぁというものを実際にカタチにする作業は他に変えられないほど楽しかったし、極論を言えば自分が楽しければそれでよかった。
今モノを作るとき、考えるとき、自分というテーマではなく社会というテーマから考え始めてしまっている気がする。
きっと仕事としてはそれでいいのだろう(だから自分にそのような思考を定着させた大学の教育はとてもいいんだろう多分)。
自分のものづくりとそういった社会に対するものづくりを両立できる器用な人はうらやましい。
絵に関しては今完全に自己満でやっているけど、モノづくり(立体というか実際に機能としてつかえるもの、ここでは絵とは区別する)もそうやって自己満でつくっていきたい。
藤原麻里奈さんがどうかわいいかを力説したかったのにいつの間にか自分の話になってしまった。
楽しみながらモノをつくっている(なおかつかわいい)彼女の動画を見ながら自分もなにかつかめたら・・・・とりあえずチャンネル登録しておこうかな。
星を見る -ペルセウス座流星群ー
http://www.excite.co.jp/News/photo_news/p-5659297/
昨日(一昨日?)はペルセウス座流星群を見に、夜、近所の公園に出かけていた。
星を見に出掛けるなんて何年ぶりだろう、夜散歩しているときにふと空を見上て・・・なんてことは稀にあれど、公園にブルーシートを敷いて、そこに寝そべり空を見上げるなんて経験、中学生ぶりくらいじゃなかろうか。
ただ夜空だけを何時間も見つめていると、月並みな感想ながら自然の雄大さ・美しさに感動しつつ、この星空に美しさを見出した人々も素晴らしいものだと思う。
言ってしまえば暗闇の中に光る点が無数に存在するだけなのに、そこに価値を見出し、そして星座をつくった昔の人々は何を考えていたのだろう。
星を見て、過去未来、そして壮大に目の前に広がる今へと考えを巡らせる。
月が出ていて、沈んだと思ったら今度は雲がでてきて結局流れ星は一つしか見えなかった。
でもこうやって公園に寝そべりながら空を見つめる。星も綺麗だが、雲のカタチも案外美しいものだ。
きっとその体験こそ今自分に必要なものだった。
周りにはカップルや家族がいて、子供たちは夜の公園を無邪気に走り回る(彼らにとっては星を見るよりも、こういった機会でないと許されない夜の公園で遊ぶことの方が楽しいのだろう)。
そこは人為的ではない、自然が生み出した確かな心地よい空間だった。
お客さまにしかなれない少女
人は誰しも居場所を求めたがる。
高校を卒業して数年が経った。
高校のときはなぜか同級生よりも後輩のほうが仲が良く、というよりも後輩としか仲良くなく在学中はずっと後輩達に自分1人が混じるという構図で生活していた。
卒業後も会ったりしていたが、同じ時間・空間を過ごしていないという壁は大きい。
自分が卒業して、先輩がいないと寂しいとは言われつつも、いなくても学校は廻っていく。
いつまでもその寂しさをもっていることはなく、新しい世界をつくりつづける。
自分はお客様にしかなれなかった。
大学に入ってサークル活動や学科など今様々なコミュニティに属している。
どこのグループでも行けば話す人はいるし一緒にご飯を食べる、遊びに行く人もいる。
しかしふと、自分はそのコミュニティにきちんとは入れているのだろうかと不安になる。
サークルは学科が忙しいのでフルに参加するでもなく、学科では授業の履修方法等が周りと比べとにかく特殊なので、真にその学科の学生であると自信をもって言えない。
コミュニティの数は多いが、そのコミュニティにどっぷり浸かれない。
何年か経って
私の帰ることのできる居場所はあるのか。
絵の中の彼女は賑やかな世界を見つめる
その世界は光輝いていてまぶしい
彼女にはその世界は眩しすぎる
私はお客様にしかなれない