私の居場所
学科総出で行った卒業制作展がついに終わった。
この一年はほとんどゼミ生+αとしか顔を合せなかったため、同じ学科の同学年が一同に介すのは久しぶりだ。久しぶりに見た顔もちらほらある。
打ち上げの場でそんな彼らと久しぶりに話す。大学生活も残すところ一か月。皆思い思いに友人と4年間を振り返る。
「〇〇がいないと寂しくなる」「あと一か月で皆がバラバラになるっていう実感がわかない」
大学院に残る者もいるが、(多分)半分くらいは4年間過ごした大学を去る。別れを前に寂しさを言葉にする。
でも私は知っている。「寂しい」なんて言葉は嘘っぱちだ。
高校の時、私は後輩と仲が良かった。
「先輩がいなくなると寂しくなる」、私が卒業するとき、彼女らは口々に私にそう言ってくれた。
しかし数ヶ月経ち、高校に遊びに行くと、新入生を交えて楽しく過ごしている彼女らの姿を目の当たりにした。私がいないならいないで、それでも世界は廻っていく。いつまでもその寂しさを引きずることなどない。
当たり前のことだ。でもそれは私の心に深く突き刺さった。
自分勝手な話だが、きっと私は、誰の代わりでもない私という存在の証明が欲しかった。その場所で唯一無二の存在でありたくて、その居場所に固執していた。そして勝手に裏切られた、と一人走りした思いに囚われていた。
そんな高校時代の思い出から約4年が経った。
自分の居場所、に固執しても結局裏切られるという思いからか、輪の中には積極的に交わらず、俯瞰して学科と関わっていてしまった気がする。正直今となって少し後悔。自分の大学の学科という居場所の中で、私は唯一無二の私としてのアイデンティティを確立できただろうか。飲み会という場を利用して、1人の同級生に思いをぶつけてみる。彼は答えた。「君のアイデンティティというかブランドは十分あったよ。」
そう言われて仮にお世辞だとしても、そういった返事が返ってきたことは嬉しい。そして飲み会が終わった今振り返ると、何よりそういった内面の話を自分から同級生に切り出した自分にびっくりする。そうか、無意識のうちに、ここは私にとって居心地のいい居場所となっていたのかもしれないなと。
固執するのではなく、受け止める。そう思うと「寂しくなる」という言葉を素直に受け止められる。