旅するデザイナーとマフラー

旅する暮らしを目指しながら建築についてなど日々思うことを書いていきます。

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論理的思考はいらない

ついこの間所属している団体でちょっとした揉め事があって幹部同士が議論していた。一方の幹部Aはもう一方の幹部Bのことを感情的・主観的と批判していて、幹部Bの受け入れを聞き入れない。幹部Aの主張はなんだかどこかひっかかるものの論理的には破綻していなくて幹部Bは言い返せない・・・・

 

主観的か・・・・

 

横で素知らぬ顔でこの議論を聞いていながら、主観客観についてつらつらと考えていた。客観的な視点から論理的に話すことが中学校・高校・大学とあがっていくにつれ重要視されるようになってきてそれができる人間が良しとされてきた。

でも幹部Aを見てるとどうも理論では納得できるのだけどなぜか釈然としない。なんだか最も重要な人間らしさのような部分が抜け落ちてしまっている気がしてしまう。

ほんとに理論的な考えができればそれでいいのか・・・・?

 

 一体どうすればよいのかネットでいろいろ記事をあさっていたら以下のような記事をみつけた。

どういうわけか、「気を遣わないこと」を「論理的だ」と思っている人はとても多い。感情面に配慮せずに議論することを「論理的な議論」だと信じている人には、なんというか、もう、げんなりさせられる。rootport.hateblo.jp

 

論理的な人間は自分を信用していないからだ。自分の「感性」よりも、論理を信じているからだ。

 

僕の幹部Aに感じていた違和感はこれだったのか。

理論に従えば自分の行いに今までも、そしてこれからも間違いはない。そういった心が幹部Aの中にはあるのだろう。

でも理論的であるというのはある種未来が見通せるということである。未来が見通せる人生はなにがおもしろいのだろうか。一寸先は常に闇だが、だからこそ手探りに全力で生きられる、人生とはそういうものだと自分は思うのだ。