大学生活におけるサークルの優位性について
自分は2つのサークルに1年のときから所属していた。つい先日、それぞれのサークルの一大イベントが終わり2つのサークルともに引退を果たした。正直ここまでたどり着けるとは思っていなかった。
ちょうどいい機会だし簡単に自分のサークル活動を振り返ってみようと思う。
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問題解決能力はいらない
自分のずっと思っていることドンピシャの記事があった。
大学では問題発見能力と問題解決能力を高めるための訓練ばっかりさせられる。
考えれば考えるほどこの世の中は問題だらけのように思えてくる。
でも本当にそうなのだろうか。
問題だと思うから問題が発生する。
問題だと思わなければ、何食わぬ顔で過ごすこともできるのだと思うのだけど・・・
TDW火災におもう、建築学生がものをつくるということ
東京デザインウィーク2016で痛ましい事件が起こってしまった。
事件当日ではないが自分も色々見て楽しんできたので、つい数日前自分のいた場所で死者がでた、特に楽しむための場所で、というのはとても心苦しい。
亡くなってしまった5歳の男の子の冥福を祈るばかりだ・・・。
思うことが色々あった。自分のなかで少し整理がついてきたので書き記そうと思う。
運営の仕方等については色々な人がすでに述べているので、事件を起こした学生達と同じ、建築を学ぶ学生としての立場からいろいろ述べたいと思う。
正直なところをいうと今回の事件で建築学科のものをつくるということに対する限界のようなことを感じてしまった。
建築学科は模型をつくる。模型を見てボリュームやプランを確認し、模型を見て検討する。
しかしあくまでもつくるものは模型である、実物ではない。
デザインを学ぶ友人曰く、もちろんモックや提案のみで終わることもあるが、スツールや食器等実物をつくる機会は建築学科に比べ、多いようだ。
建築もデザインもものをつくるという面においては同じだが、建築を学ぶ学生はデザインを学ぶ学生に比べ、ものをつくるという意識が低いのかもしれない。
自分が今つくっているものは、単なる模型ではなく、現実世界で建てられる建物だという意識を常日頃から持たねばいけなかったのではなかろうか。
今回火災が起こった作品をつくったのは建築学生サークルの学生達だそうで。
きっと1/1スケールの作品をつくるということは彼らにとってほとんど初めての経験だったのであろう。
実物と模型は全然違う。
模型に比べ、実物をつくるときは様々なことを考えなければいけない。
今回のことだって白熱電球を使う機会が以前にもあれば、熱くなるということは想像できたはずだ。
人が触る部分はR掛けをしないと危険である、体積に対しある程度の重さがないと風で倒れてしまうetc・・・。
木材同士を釘で固定したことがない人達はきっと釘一本だけで固定したら木材が回転してしまい、固定されないということを想像できないかもしれない。
様々なことを考える代わりに得る知識、体験も多い。だからものをつくるのは楽しいのだと思う。
コルビジェなど歴史に名を連ねる建築家たちは、建築だけでなく家具のデザインもしていた。彼らが有名になりえた理由は実寸大のものを作るという行為を通じて、リアリティのあるものづくり、建築づくりを身体に染みこませていたのだろう。
たとえつくるものが模型だとしても、そこにはリアリティがなくてはいけない。
そもそも模型をつくるのは時間短縮だったり節約だったりするわけで。ものづくりの道理がわかってない人達が模型をつくったところでそれは模型ではなく単なる空想の産物である。
だから順序としては
実際にものをつくる→ものづくりの道理がわかる→模型づくり
が正しい。
建築学生が設計したものを模型ではなく実際に建てるということは難しい、というかほぼ不可能だ。でも古民家改修のワークショップなど、実際に自分の手で建築に触れる機会はその辺に転がっているのだから建築学生はなんとしてでも参加しなくてはと思った。
建築をつくるのは大工でないし、建築士がやることは模型づくりではないのだから・・・。
自分もまだまだものづくり人生のスタートラインにたったばかりといったところ、建築もまるで知らない、ただの一学生であるけれども、ものをつくるという人生を選択した以上、「ものをつくる」、このことに真剣に向き合い、このことをいつも考えていたい。
労働と仕事
去年のクリスマス電通社員が過労死自殺し、電通のブラックな実態が明らかになってきた。まだ24歳ということで自分とさほど年齢は変わらない。とても痛ましい事件である。
いくつかの記事を徘徊しているうちに、ふと自分の同級生のブログ記事が頭に思い浮かんだ。
彼を名指しで批判したいわけではないのでブログ名等は伏せるが、要約すると、俺は普通の人だったら忙しくてできないというようなことをできたのだから、「忙しい」という言葉は嘘であり甘えだ、というような内容である。
彼自身はとてもいい人だし、いろいろ活動していて実績もある人だが、彼とグループワークをした人たちは口をそろえて、彼の不満を漏らす。考える隙もなく、彼の言いなりになってるだけだと。
彼の敬愛している、また彼のことをとても気にかけている教授も彼と同じような考えをもっている。
いつだったか自分らが作業しているとき、先輩が差し入れをもってきてくれたことがあった。とてつもなく疲弊していたので差し入れをありがたくいただき、一休憩していたところにかの教授がはいってきた。自分たちが一休憩している姿を見るや否や、部屋からでていき30分くらいして戻ってきたかと思えば「飯食ってんなよ!!」と怒鳴り散らしてきた。
作業的にそんな切羽詰まっているわけでもなかったし、なにをそんなに怒ることがあるのか、正直そのときはよくわからなかったが、その後ところどころ無理難題な仕事をむりやり他の学生に押し付けたりしているのを見て、ああこの人はブラック的な仕事観を持つ人なんだなとようやくわかった。
例の気にかけている学生が精力的に活動しているのをみて(それ自体はいいことだと思うものの)満足気になり、「仕事まだまだあるよ笑」「もっと働いてー笑」など発言する。
二人を観察していると、悪い部分で似ているところが発見できた。
支持者がいないのに精力的に活動しているところである。
彼らの受け持っているプロジェクトはメンバーが力を合わせて頑張っているわけではない、リーダーの彼らの理想を実現させるために、彼らが他の人を無理矢理つかっているというような構図になっている。
友人が言っていた。「労働」になってしまってはつまらないし、やる気でない、と。まさに彼らの行うプロジェクトは「仕事」ではなく「労働」である。
「労働」ではなく「仕事」をすること、これを忘れてはいけないと思う。
幸せへとつづく生き方
いつの間にか新学期が始まっていた。
なんだか夏休みっていう期間もほとんど休みなく動いていたので境目がわからなかった。
授業も少ないし、なんなら大学という組織自体に嫌気がさしているところも若干あるので、授業なんぞどうでもよい。
むしろ目の前のやらなければいけない山積みになったことを処理しないといけない。
時折思う
こうやって生きていて
これからどんな富や名声を手に入れても
自分は幸せにはなれないのだろう
この生き方を選択していることはおそらく自分を幸せへと導かない
忙しいことや予定が埋まることに快感を覚える人がいる。夏休みの予定をバイトでも遊びでもなんでも詰め込める人は尊敬する。
いままで夏休みの予定は常に白紙だった。
朝起きて、気の向くままに動く、これがおそらく自分の思い描く理想なんだとおもう。
なぜだか大学ではいろいろやってしまう、自分の首を絞める方向に動いてしまう。
なぜだろうか
プライド、他人の目を気にしてしまうからだろう。
何かをやっている、何か成果をだしている自分というものを誰かに見せたいのではないか。
期待にこたえたい、ではなく、期待にこたえないといけない。
自分を喜ばせたい、ではなく、相手をがっかりさせたくない。
相手本位の行動ではいつまでたっても自分は幸せになれない
そして今の自分では自分の幸せを手に入れながら、相手も幸せになるような器用な芸当はできない、シンプルなのかもしれないけど、できない。
束縛されない生活への道は、程遠い・・・・
本を読むということ、誰かの話を聞くということ
サークルに新しく入ってきたとある1年生はなかなかの経歴の持ち主でとても面白い。
高校を卒業し数年間フラフラしていたものの急に数学に目覚め、猛勉強の末大学に入った。大学に入った後も、自身の専門にとらわれることなく興味のある分野を幅広く学んでいる。
別に高校卒業後フラフラしてるだけなら自分もそうだったし(一年間の宅浪期間は受験生というより気ままなニートだった)、自分自身も専門以外の興味のある分野を聴講したりしている。
しかしそんな彼の話は自分とは比べものにならないくらい面白い。
教養が深いのだ、どんな分野のことでも自分の言葉で説明したうえで自分の考えを述べられている。
どうやらとにかく本を読みまくっているらしい。なるほど。
誰かと話すとその人の考えを知れる、そして吸収できる。知識・教養の幅とはどれだけいろんな人と話したかだと自分は思っているし、自分もいろんな人と話そうとしているが、しょせん学生、いろんな人と話そうとしても同じような年代・考えの人しか近くにいないのだから結局あまり幅は広がらない。
でも本は違う。生きた時代、生きた土地、年齢も分野も違う人の話を本を読むことで聞くことができる。知識・教養の幅をひろげられる。
本のデメリットとして一方的な会話になってしまうことがあげられる。「それどういう意味?」と聞いても本は返してくれない、どんどんと自分の話を進めていってしまう。
だからわからないところがあると、せっかく話してくれたことも自分のものにできぬまま、終わってしまうことも多い。そのまま知らないでいることもできる、しかしその答えをほかの本に聞くこともできる。そうすることでどんどんと連鎖的に知識が増えていく。
その後輩は質問の答えを探すためありとあらゆる本に手を出し、どんどんと教養をふかめていっているのだ。
そんな後輩の姿にあこがれた、本の中の人々と話をしてみたい、そんな気になった。
とりあえず手元にある「責任という虚構」でも読んでみるとするか。
500枚スケッチ -100枚経過-
やっと100枚描けた・・・
実は高校のとき1日1枚スケッチをしていたので100枚という数は余裕かと思っていたけど、こんなにも大変だとは・・・・
7月初めから始めたので単純に考えて1日2枚、高校のときの倍だ。
100枚経過してわかったこと
・描くことが習慣になる
最初のころは何かと理由をつけて描けないこともあったりしたが、
だんだんと描くことが日常に入り込んで何も意識せずとも描くようになった。
・どこでも絵が描けるようになる
描かないとという気持ちから自宅以外の友人宅や外でも描けるようになった。
・描くことが以前にまして楽しくなる
描くこと楽しい・・・・
こんな調子で500枚描けるのか・・・ちょっと不安だけど頑張ってみる