「アート」という言葉に対する不信感
つい最近ヘッダーの言葉を変えた。
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「アート」という言葉に対する不信感が最近激しい。アートという言葉を見るだけでなんだか胡散臭さを感じてしまい、その胡散臭さみたになものに自分が染まってしまうのがなんだか気持ち悪いので、言葉を変えた。
関わっている団体でアートという言葉を扱う機会があった。アートを通じてコミュニティを増大させる、アートを通じて地域を活性化させる。
それらの取り組み自体は間違ってないとは思うし、アートという言葉本来の意味にはあっているのだろう、納得はできる。
ただ「アート」という言葉がコミュニティ増大等の目的の単なる手段の一つとなってしまっているように思う、その裏にある経済効果などが透けて見えているような気がしてしまうのだ。
アートと銘打つからにはつくりだした作品やその作品を作り出す過程こそ最も重要視すべきだと自分は思う。
その作品を通じ何を五感で感じ取ったか、何を得たか、そういったところが見逃され、仲良しコミュニティが増えましたよかったねで終わってしまう現状がちらほら見受けられるのが今のアートの残念なところな気がする。
しかしここのところは自分でもまだ整理しきれていない。作品というものに自分はこだわりすぎているのだろうか。
うーん美術=アートと訳されがちなのもよくないのかもしれない。
今度またじっくり考えよう・・・。
アートの代わりにお絵描きなどという幼稚な言葉を使うのもどうかと思うが、ボキャ貧な自分にはいい言葉が見つからないし、そんな言葉でも「アート」などという言葉よりは何十倍もマシなのだ。
折り紙コンベンションに参加した話
先日第22回折り紙コンベンションというものに参加してきた。
なんでも近所の子が折り紙好きらしく父親から連れていくように頼まれたのである。
自分自身もかれこれ10数年前に一度参加したことがあり(理由は忘れた)、だから父親も僕をチョイスしたのだろう。
実家から離れたところで開催されるが、日本全国で考えれば近い方なので文句は言えない。九州の方からこのために来る人もいるそう。
折り紙の折り方を教えてくれる講習会と、色んな作品が展示してある展示会からなるが自分の目的は展示会。どんなものがあるか楽しみだった。
やはり折り紙のプロ(?)達の作品はすごい、たった一枚からどうやってこれを負ったんだというものがたくさんある。
あと前に一度来た時もキングギドラ等があった記憶があるが、ほかのメディアに比べて何故かドラゴン系の作品が多い気がする。かっこいいからかな?
折り紙作品は造形よりも、一枚の紙という他の立体作品とは比べ物にならないほどの制約のなかでこれをつくったという事実ですごいと思うことがほとんどである。よって普通の立体作品と比べるとつよさみたいなものがあまりない。しかしこの会場にあった作品はそれを乗り越え純粋に造形としてすごいと思うものがたくさんあった、個人的に気にいったものの一部をあげる。
展示されていたドラゴン系のなかで一番良かった、元ネタを知っているからかもしれない。質感も表現されていてよかった。
マーメイド
どこがつくったのかは忘れてしまった。色味、造形ともにマーメイドの妖しさがでている。
堕天使
個人的に一番好き。一目見た瞬間からその造形にほれぼれした。ましてやこれが折り紙なのか・・・。
会場で折り紙の本を買ってしまったし、久々に折り紙でも折ってみようかな。
藤原麻里菜さんがかわいい
youtubeで「無駄づくり」というチャンネルを偶然見つけた。そのチャンネルの運営者の藤原麻里奈さんがかわいい。なんだか惹きつけられる顔だったり雰囲気がある。
アイデアもなかなかぶっとんでいて見ていて飽きない。
こういう方が彼女だったら、いや身近にいるだけでも毎日が楽しいだろうなぁ。
どんどんとアイデアが湧き出てそれのプロトタイプをつくってということを続けられるのはものをつくる勉強をしている自分にとって素直に尊敬できる。
なんだか最近ものをつくれていないなぁと思う。モノをつくるときにコンセプト、使いやすさや、今からつくるモノのメリット、ポートフォリオにのせられるか等、何かとか色々余計なことを考えることに時間を割いてしまい、手を動かしてモノをつくる時間が減ってしまった。
(一人暮らしでお金がないということもあるが)
モノをつくることをあまり楽しめていない。
自分のつくるものはどんな形であれ社会に出してみられてしまうということを意識してしまい、より余計なことを考えモノをつくれない・・・・悪循環だ。
高校のときや大学入りたてのころはそんなことを考えず、純粋につくることを楽しんでいた。自分がこんなのあったら楽しいだろうなぁというものを実際にカタチにする作業は他に変えられないほど楽しかったし、極論を言えば自分が楽しければそれでよかった。
今モノを作るとき、考えるとき、自分というテーマではなく社会というテーマから考え始めてしまっている気がする。
きっと仕事としてはそれでいいのだろう(だから自分にそのような思考を定着させた大学の教育はとてもいいんだろう多分)。
自分のものづくりとそういった社会に対するものづくりを両立できる器用な人はうらやましい。
絵に関しては今完全に自己満でやっているけど、モノづくり(立体というか実際に機能としてつかえるもの、ここでは絵とは区別する)もそうやって自己満でつくっていきたい。
藤原麻里奈さんがどうかわいいかを力説したかったのにいつの間にか自分の話になってしまった。
楽しみながらモノをつくっている(なおかつかわいい)彼女の動画を見ながら自分もなにかつかめたら・・・・とりあえずチャンネル登録しておこうかな。
星を見る -ペルセウス座流星群ー
http://www.excite.co.jp/News/photo_news/p-5659297/
昨日(一昨日?)はペルセウス座流星群を見に、夜、近所の公園に出かけていた。
星を見に出掛けるなんて何年ぶりだろう、夜散歩しているときにふと空を見上て・・・なんてことは稀にあれど、公園にブルーシートを敷いて、そこに寝そべり空を見上げるなんて経験、中学生ぶりくらいじゃなかろうか。
ただ夜空だけを何時間も見つめていると、月並みな感想ながら自然の雄大さ・美しさに感動しつつ、この星空に美しさを見出した人々も素晴らしいものだと思う。
言ってしまえば暗闇の中に光る点が無数に存在するだけなのに、そこに価値を見出し、そして星座をつくった昔の人々は何を考えていたのだろう。
星を見て、過去未来、そして壮大に目の前に広がる今へと考えを巡らせる。
月が出ていて、沈んだと思ったら今度は雲がでてきて結局流れ星は一つしか見えなかった。
でもこうやって公園に寝そべりながら空を見つめる。星も綺麗だが、雲のカタチも案外美しいものだ。
きっとその体験こそ今自分に必要なものだった。
周りにはカップルや家族がいて、子供たちは夜の公園を無邪気に走り回る(彼らにとっては星を見るよりも、こういった機会でないと許されない夜の公園で遊ぶことの方が楽しいのだろう)。
そこは人為的ではない、自然が生み出した確かな心地よい空間だった。
お客さまにしかなれない少女
人は誰しも居場所を求めたがる。
高校を卒業して数年が経った。
高校のときはなぜか同級生よりも後輩のほうが仲が良く、というよりも後輩としか仲良くなく在学中はずっと後輩達に自分1人が混じるという構図で生活していた。
卒業後も会ったりしていたが、同じ時間・空間を過ごしていないという壁は大きい。
自分が卒業して、先輩がいないと寂しいとは言われつつも、いなくても学校は廻っていく。
いつまでもその寂しさをもっていることはなく、新しい世界をつくりつづける。
自分はお客様にしかなれなかった。
大学に入ってサークル活動や学科など今様々なコミュニティに属している。
どこのグループでも行けば話す人はいるし一緒にご飯を食べる、遊びに行く人もいる。
しかしふと、自分はそのコミュニティにきちんとは入れているのだろうかと不安になる。
サークルは学科が忙しいのでフルに参加するでもなく、学科では授業の履修方法等が周りと比べとにかく特殊なので、真にその学科の学生であると自信をもって言えない。
コミュニティの数は多いが、そのコミュニティにどっぷり浸かれない。
何年か経って
私の帰ることのできる居場所はあるのか。
絵の中の彼女は賑やかな世界を見つめる
その世界は光輝いていてまぶしい
彼女にはその世界は眩しすぎる
私はお客様にしかなれない
仲介者である自分
性格診断テストやってみた
無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities
↑性格診断テストとその結果
16にしかパーソナリティを分けてないので他の性格タイプ見ても(あてはまっているな)と思う部分があったり、一つの性格タイプ内に誰でもあたるようなこと書かれていたりして若干のバーナム効果を感じつつもなんだか結構納得のいく性格診断だと思った。
特に共感を得た部分が”仲介者-INFP型”の人は自らの純粋な意志、信条に基づき行動するという部分だ。当たり前だと思うかもしれないし、自分では当たり前だと思っていたのだが、自らの純粋な意志で行動している人は意外と少ない。周りからの圧力やプライド、打算的な画策等で動いている人間のなんと多いことか。何か選択を下すとき、ほかにどのような要因があろうが最も重要なことは自分がやりたいかやりたくないかだ。
高校時代は周りのほとんどが自分の意志に基づいた行動をしていたように思えたのだけど、大学に入ってそうではない人たちに出会うことが確実に増えた。
周りの意見に流される人
信条に基づいた行動をするというよりも、信条それ自体に行動を制限され、振り回されている人(つまりは確固たる信条みたいなものがないのか)
高校が異常だったのか大学生という地位がそうさせるのかはわからない。仲介者は全人口の4%しかいないらしく、なるほど自分のような生き方は特に大学に入って人から共感されにくい。
この生き方を自分は誇りに思っているし皆そうあるべきだとおもっているが他人を説得したところでどうせ他人を変えることはできないのだから、自分は自分でこの道を行こうではないか。
私が考えるのなんて追いつかないくらい、いろんな気持ちで世界は動いている。
大学も夏休みが近づいてきた。真っ白だった予定もちまちまと埋まり始めてきている。何もない夏休みっていうのも味気ないし予定が埋まっていくのは嬉しい反面、少しつまらなくもある。決まりきっている未来はつまらない。
今年度、1年間携わらなければいけないプロジェクトがあり、もうすでにかかわりをもったことに後悔し始めている。なんでこんなことをしてしまったのだろうか過去の自分は何を考えていたのだろうと殴りたくなるが、きっと今年度始めの自分はそのプロジェクトに対しワクワクし、やる気に満ち溢れていたのであろう。
昔の自分と今の自分は違う。
このブログも50記事に達し、ごくまれに昔の記事を見返すと昔の自分はこんなこと考えていたのだと実感させられる。自分は常に更新され続けているのである。そしてそのスピードは自分が思っているよりもはやい、とても、とても。
昔読んだ「惑星ハニー」というマンガでも言っていた。
・・・一番近い宇宙を知っていますか
ここ(心臓を指さす)
手を伸ばして 触れて
すべて知った気になっても
この中で何をかんがえているのかの全貌はわからない
私が考えるのなんて追いつかないくらい
いろんな気持ちで世界は動いている・・・
自分が変わる、他人も変わる、世界の全ては変わり続ける。たまにこの変わり続ける世界の中で長期的な計画なんてなんの意味があるのだろうと思う。
世界が変わるスピード、いやもっと主観的で身近な存在でとらえよう、自分の感情が移ろいゆく時間とプロジェクト等で拘束されてしまう時間って実はとても大きな隔たりがあるのではないだろうか。ヒトは移ろいゆく生物なのだし、その日その日一瞬の感情に身を任せて生きていくほうがもしかしたら健康的なのかもしれない。
しかしこの社会ではそういっていると仕事をもらうのもままならないので、ある程度先の未来のことを常に考えつつ行動する。そうじゃない自由気ままな人もいるのだけど今の自分には真似したくても真似できない。
夏休みの予定、楽しみなもの不安なものいろいろだけど近くになるとまたそれらの感情は移ろい変わってゆくのだろう。でも、少しこの社会から自由気ままになってみよう。予定はきっと変わる、いや変えてやろうではないか。そう思うと少し楽しくなってきた。
私っていう人間は絶望的な程自分のことしか考えられない
非常に大学に行きたくない。
責任に押しつぶされてきりたい授業がある。グループワーク的な感じで自分のつくったものをそのグループの人達全員が使う。授業内だけで使うのではなく、社会にも出していくような実践的な授業だ。実践的とは言えたかが大学の授業、本当に嫌ならきればいい。でもそれができないのはなぜなのか?
自分が責任を放棄したせいで他人に迷惑をかけるのが申し訳ない?そんな高尚な理由を自分のなかで立ててみたが全然違うと自分でも気付いている。そうではない、責任を放棄した自分が他人からどう思われているか気になるだけだ。責任を放棄したダメな奴だと思われたくない。
自分は絶望的な程自分のことしか考えられない。
この言葉が頭に浮かび、そういえばどこかでこの文面はどこかで見たことあるなと小一時間考え、ある漫画でのワンシーンであることを思い出した。
web漫画「霧中進行」という漫画でネモトというキャラの台詞だ。一部抜粋しておく。
自分の今までの人生
どうしようどうしようまた一人になっちゃった
どこかに入れてもらわないと
また一人になっちゃった
「 貴方の場合は苛めって言わないのよ
足を引っ張って実害を出してるの
どうして皆と一緒に出来ないの 」
私もそう思う!でも似たような人が集まるのが宗教だもん
・・・たまたまそこが合わなかっただけ
「 頑張ってるって言っても結果がついてこないのを
なんていうか知ってる?頑張ってないって言うんだよ 」
「 君さ物覚えが悪いってよく言われない?
頑張るのはいいけど誰が埋め合わせすると思ってんだろ
仕事した気になりたいだけだろ 」
「 ネモトなんで自分が周りから浮くか気付かない?
自覚ないとしたらそれ重症だよ
ネモト他人の気持ちとか全然考えてないんだもん
いつも自分の事ばっか
何やっても「好かれたいから」ってのが見え見えだもん 」
違うよ私が普通にしてると皆の足引っ張って迷惑かけるからむしろ皆に合わせられるように・・・
もしかして変だった?
不自然だったかな
迷惑だったらやめるよごめん
「 だからそういう所がさぁ・・・いいわ
ずーっとそうやって自分の事ばっかり考えてりゃいいよ 」
待って
また一人になっちゃう
私の悪い所全部直すから
『私の』
こうやって私のことばっかり考えてるから私はだめなんだ
『私は』
また『私』 『私』 『私』
私っていう人間は絶望的な程自分のことしか考えられない
なかなか複雑だけど面白いこの漫画については自分の思考の整理も兼ねて、いつか人記事書きたい。このブログをどれほどの人が読んでいるのかわからないし、そもそも読者を想定して書いているようなブログではあまりないのだけど(そこもまた自分本位である)、個人的にとてもオススメできる漫画なのでひっそりと宣伝しておく。
まぁそれはさておき、このシーンがまさに自分の言いたいことを体現してくれている気がする。他人のことを考えてるつもりでも結局自分のことを考えてしまう。居場所を探すけれども見つからない。他人からの奉仕ばかり求めてしまい、自分が他人に奉仕ができない、他人にとって自分はメリットがない、時によっては害となりえる。
他人に対する奉仕の精神を磨くにはどうすればいいのか・・・・いくら考えても自分のことを考えていることになってしまい、結局人生なんて自分の幸せが第一なのだからこのままでいいんじゃないかという気がしてしまう。まぁそれを貫き通して幸せになるのはなかなか難しいのだけど・・・。